シニシズムの放棄について
mojimojiさんの一連のEntry周辺の議論。
排外主義者、あるいは日曜サヨク
排外主義者、あるいは日曜サヨク、その2
排外主義者、あるいは日曜サヨク、その3
排外主義者、あるいは日曜サヨク、その4
論点は2つ。
・ネット右翼がなぜ中国のチベット支配を批判できるのか?
・中国のチベットへの抑圧を批判する為に左翼・人権派とネット右翼・保守派は共闘すべきか?
前者について。左翼・人権派がチベット問題を「ネット右翼が満足するようなかたちでは」取り上げていないこととチベット問題に類する人権問題に関してネット右翼がどのような態度を取ってきたかということは同列に並べられるべきではない。
仮に左翼や人権派のチベット問題への関心が相対的に低かったとしよう。しかし人間が有限的存在であって、あらゆる問題へコミットすることはできない以上、それは矛盾とまでは言えない。もしチベット問題について左翼・人権派がどのような立場をとるのかを知りたいなら、mojimojiさんが言われるように単に尋ねてみればいいのである。ちなみにほとんどの場合「中国政府を支持しない」という答えが返ってくるだろうけれども。
しかしネット右翼は事情が異なる。これまで彼らは人権問題を取り上げてこなかったのではなく、人権問題への取り組みを「冷笑」してきたのである。戦争責任・人権問題に取り組む人間を「プロ市民」と嘲り、偽善者扱いをしてきたわけである。その彼らがなぜ「チベット問題はコミットするべき」だと主張するのだろうか?チベット問題は人権問題ではないのだろうか?例えばこれまでもチベット問題を人権問題として取り上げてきた人間は存在するわけだけれども、彼らは「プロ市民」・「偽善者」ではないのだろうか?
さらに言えばネット右翼の多くは例えば「嫌韓流」といった本の記述を肯定的に捉えて「日本は韓国・台湾に良いこと=近代化をしてあげた」とか「日本の植民地支配は日本側の持ち出しであった」などと主張し、日本が植民地を抑圧したことを否定する。ではチベットに関してはなぜ「中国政府はチベットに良いこともしてあげているから抑圧しているとは言えない」と主張しないのだろうか?中国はまさに「持ち出し」でチベットの「近代化」を図ってきたのだから。一体どのような論理でネット右翼は中国を批判しうるのだろうか?
僕は無い知恵を一生懸命に絞って考えたのだけれども、これまでのネット右翼の主張と今回のチベット問題へのコミットメントを「整合的」に理解する論理を考え出すことは出来なかった。左翼・人権派は百歩譲ったとしても「今回は声が小さい(ようにも見える)」(それもごく普通に理解可能な)程度の話に過ぎないが、ネット右翼はそれどころではなく明らかに「理解不可能」・「矛盾」しているように見えるのだ。
その矛盾を指摘されて答えに窮した人たちが出してきたのが後者の論点、すなわち「人命が失われているのだから多少矛盾している人間がいたって受け入れるべき」という運動論の話である。ところでこの論点は「チベット問題が人権問題である」ということ「目の前の人権問題にはきちんと声を上げるべきであるということ」を前提にしなければ成立しない。それは「人権」に対する「シニシズム」、「国家によってのみ人権が守られるのだから反体制的な人権派の主張は自己矛盾(甘え)である」といった主張を放棄した上でなければ成り立たないのである。
いずれにせよネット右翼のシニシズムの論理が今回のことで「自滅した」ということについては非常に興味深いものがある。チベット問題に接してシニシズムに浸っていることに耐えられず思わずコミットしてしまった(元々徹底したシニシストではなかった)のか、それとも「シニシズムは行き着くところまでいくとある種のベタなロマン主義に転化する」という「仮説」が正しかったということなのか僕にはよく分からないけれども。
というわけで僕の後者の論点に対する答えは「共闘してもよい」。「シニシズムの論理」が自滅してこれ以降の人権問題への取り組みの風当たりが減るのって悪いことじゃないですから。
ところでiteau氏の対応も「往生際が悪い」としか言いようがないけど、それにしてもmojimojiさんて本当に容赦ないなあ。逃げ道を全部塞いで、文字通り「完膚なきまでに」という感じ。
(追記)
inumashさんのEntryへのお答え。
まず事実認識について。Entry上でも「ネット右翼が満足するようなかたちでは」とか「声が小さい(ようにも見える)」と留保しているように僕は特に今回左翼・人権派の動きが鈍かったとは思っていません。短期間にもかかわらずそれなりの人たちがそれなりの対応をしたのではないでしょうか。だいたい「左翼は声が小さい」とか言ってる「普通の庶民」なんて本当に存在するんでしょうか(少なくとも僕の周りの人にはいませんでしたけれども)。
世間一般における“注目”や“熱意”の供給量に対して「左派」の購買量があまりに少なかった、というのが根底にあるんじゃないかな。に関しては正直言ってあまりにも茫漠としていて検証不能な話ですねえという感じです。
そもそも動きが「鈍い/速い」とか声が「大きい/小さい」というのは単に主観的判断にすぎない。もっと言うと政治性の表明なわけです。どういうことかというとinumashさんもネット右翼も、左翼に対して「かくあるべし」という政治的判断がまずあって、それが「鈍い」とか「声が小さい」とかいう判断を導いているわけです。左翼がそれに完全にシンクロしていないという批判なんですね。そしてそういった個人的な政治的判断でしかないものを唯一の根拠にしてしか成り立たない批判=「左翼沈黙論」というのが何か生産的な意味を持つのかよく分からない。
さらに言うとこの手の批判は、仮にもっと多くの団体が動いていたとしても、「まだあそこが動いていないじゃないか」とかいくらでも言えてしまう話なわけですね。特にネット右翼の人は「まだ足りない」とケチをつけ続けたのではないでしょうか。
それに比べれば「ネット右翼の矛盾」というのは客観的に明らかなわけで、彼らは「良い機会だ」と思ったのかもしれませんが、でもそれって「自滅」ですよねというのが僕のEntryの主旨です。それにしてもそもそも彼らはなんで今回の件を「良い機会だ」などと「勘違い」をしてしまったのでしょうかね。
(再追記)
さらにお答え。
それを本気で検証するんなら正式に調査した方がいい、ということには同意するけれども。検証していない議論を唯一の頼みにした「左翼批判」に何か意味があるのでしょうか。この批判は、「世間一般」とか「注目」「熱意」「供給量」「購買量」などに全く中身が伴っていないので、「もっと何か出来たはずだ」という無内容な一般論にしかなっていない。
一般論というのはいつでもどこでも誰にでも成り立ちます(どんな運動でも行為でも完璧なものなどありえませんからどんなケースにおいても「もっと何か出来たはずだ」と主張することは出来る)。それゆえに無内容な主張なわけです。結局「機会損失が大きかった」という点を少なくとも説得的なかたちで算定しなければ今後の指針にすらなりません。

