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2008年04月01日

シニシズムの放棄について

mojimojiさんの一連のEntry周辺の議論。

排外主義者、あるいは日曜サヨク
排外主義者、あるいは日曜サヨク、その2
排外主義者、あるいは日曜サヨク、その3
排外主義者、あるいは日曜サヨク、その4

論点は2つ。
・ネット右翼がなぜ中国のチベット支配を批判できるのか?
・中国のチベットへの抑圧を批判する為に左翼・人権派とネット右翼・保守派は共闘すべきか?

前者について。左翼・人権派がチベット問題を「ネット右翼が満足するようなかたちでは」取り上げていないこととチベット問題に類する人権問題に関してネット右翼がどのような態度を取ってきたかということは同列に並べられるべきではない。

仮に左翼や人権派のチベット問題への関心が相対的に低かったとしよう。しかし人間が有限的存在であって、あらゆる問題へコミットすることはできない以上、それは矛盾とまでは言えない。もしチベット問題について左翼・人権派がどのような立場をとるのかを知りたいなら、mojimojiさんが言われるように単に尋ねてみればいいのである。ちなみにほとんどの場合「中国政府を支持しない」という答えが返ってくるだろうけれども。

しかしネット右翼は事情が異なる。これまで彼らは人権問題を取り上げてこなかったのではなく、人権問題への取り組みを「冷笑」してきたのである。戦争責任・人権問題に取り組む人間を「プロ市民」と嘲り、偽善者扱いをしてきたわけである。その彼らがなぜ「チベット問題はコミットするべき」だと主張するのだろうか?チベット問題は人権問題ではないのだろうか?例えばこれまでもチベット問題を人権問題として取り上げてきた人間は存在するわけだけれども、彼らは「プロ市民」・「偽善者」ではないのだろうか?

さらに言えばネット右翼の多くは例えば「嫌韓流」といった本の記述を肯定的に捉えて「日本は韓国・台湾に良いこと=近代化をしてあげた」とか「日本の植民地支配は日本側の持ち出しであった」などと主張し、日本が植民地を抑圧したことを否定する。ではチベットに関してはなぜ「中国政府はチベットに良いこともしてあげているから抑圧しているとは言えない」と主張しないのだろうか?中国はまさに「持ち出し」でチベットの「近代化」を図ってきたのだから。一体どのような論理でネット右翼は中国を批判しうるのだろうか?

僕は無い知恵を一生懸命に絞って考えたのだけれども、これまでのネット右翼の主張と今回のチベット問題へのコミットメントを「整合的」に理解する論理を考え出すことは出来なかった。左翼・人権派は百歩譲ったとしても「今回は声が小さい(ようにも見える)」(それもごく普通に理解可能な)程度の話に過ぎないが、ネット右翼はそれどころではなく明らかに「理解不可能」・「矛盾」しているように見えるのだ。

その矛盾を指摘されて答えに窮した人たちが出してきたのが後者の論点、すなわち「人命が失われているのだから多少矛盾している人間がいたって受け入れるべき」という運動論の話である。ところでこの論点は「チベット問題が人権問題である」ということ「目の前の人権問題にはきちんと声を上げるべきであるということ」を前提にしなければ成立しない。それは「人権」に対する「シニシズム」、「国家によってのみ人権が守られるのだから反体制的な人権派の主張は自己矛盾(甘え)である」といった主張を放棄した上でなければ成り立たないのである。

いずれにせよネット右翼のシニシズムの論理が今回のことで「自滅した」ということについては非常に興味深いものがある。チベット問題に接してシニシズムに浸っていることに耐えられず思わずコミットしてしまった(元々徹底したシニシストではなかった)のか、それとも「シニシズムは行き着くところまでいくとある種のベタなロマン主義に転化する」という「仮説」が正しかったということなのか僕にはよく分からないけれども。

というわけで僕の後者の論点に対する答えは「共闘してもよい」。「シニシズムの論理」が自滅してこれ以降の人権問題への取り組みの風当たりが減るのって悪いことじゃないですから。

ところでiteau氏の対応も「往生際が悪い」としか言いようがないけど、それにしてもmojimojiさんて本当に容赦ないなあ。逃げ道を全部塞いで、文字通り「完膚なきまでに」という感じ。

(追記)
inumashさんのEntryへのお答え。

まず事実認識について。Entry上でも「ネット右翼が満足するようなかたちでは」とか「声が小さい(ようにも見える)」と留保しているように僕は特に今回左翼・人権派の動きが鈍かったとは思っていません。短期間にもかかわらずそれなりの人たちがそれなりの対応をしたのではないでしょうか。だいたい「左翼は声が小さい」とか言ってる「普通の庶民」なんて本当に存在するんでしょうか(少なくとも僕の周りの人にはいませんでしたけれども)。

世間一般における“注目”や“熱意”の供給量に対して「左派」の購買量があまりに少なかった、というのが根底にあるんじゃないかな。
に関しては正直言ってあまりにも茫漠としていて検証不能な話ですねえという感じです。

そもそも動きが「鈍い/速い」とか声が「大きい/小さい」というのは単に主観的判断にすぎない。もっと言うと政治性の表明なわけです。どういうことかというとinumashさんもネット右翼も、左翼に対して「かくあるべし」という政治的判断がまずあって、それが「鈍い」とか「声が小さい」とかいう判断を導いているわけです。左翼がそれに完全にシンクロしていないという批判なんですね。そしてそういった個人的な政治的判断でしかないものを唯一の根拠にしてしか成り立たない批判=「左翼沈黙論」というのが何か生産的な意味を持つのかよく分からない。

さらに言うとこの手の批判は、仮にもっと多くの団体が動いていたとしても、「まだあそこが動いていないじゃないか」とかいくらでも言えてしまう話なわけですね。特にネット右翼の人は「まだ足りない」とケチをつけ続けたのではないでしょうか。

それに比べれば「ネット右翼の矛盾」というのは客観的に明らかなわけで、彼らは「良い機会だ」と思ったのかもしれませんが、でもそれって「自滅」ですよねというのが僕のEntryの主旨です。それにしてもそもそも彼らはなんで今回の件を「良い機会だ」などと「勘違い」をしてしまったのでしょうかね。

(再追記)
さらにお答え。

それを本気で検証するんなら正式に調査した方がいい、ということには同意するけれども。
検証していない議論を唯一の頼みにした「左翼批判」に何か意味があるのでしょうか。この批判は、「世間一般」とか「注目」「熱意」「供給量」「購買量」などに全く中身が伴っていないので、「もっと何か出来たはずだ」という無内容な一般論にしかなっていない。

一般論というのはいつでもどこでも誰にでも成り立ちます(どんな運動でも行為でも完璧なものなどありえませんからどんなケースにおいても「もっと何か出来たはずだ」と主張することは出来る)。それゆえに無内容な主張なわけです。結局「機会損失が大きかった」という点を少なくとも説得的なかたちで算定しなければ今後の指針にすらなりません。

2008年03月15日

それぞれに違うけれど「一つ」

「ホワイトカラーエグゼンプション」提案時の2ちゃんねらーの反応
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/892743.html
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1029469.html

行政の長の「超過勤務」を正当化する言い草に反論する職員への2ちゃんねらーの反応
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1102983.html

いや、興味深いです。かたや、「サービス残業に対する理解がまるでない」ことに非難が集中しているのに、かたや「サービス残業するのは能率が悪いから」ですか。もちろん同じ人が言っているわけではないのでしょうけど、同じ話なのに空気が「正反対」なのはどう理解したらいいのでしょうか。単に公務員が憎たらしい=叩ければ理屈は何でもいいということなのでしょうか。

opemuさんの嘆きももっともです。「公務員も(職場が違うだけで)同じ労働者である」という感覚が掘り崩されているのかもしれませんね。けれどもこれは「公務員叩き」だけに留まる問題ではありません。例えば「正規雇用/非正規雇用」の間にも同じ問題は存在します。そうやって「敢えて分断を望む」ことで得するのは、決して「同じ労働者たる」彼ら自身ではないと思うのですけれども。

僕としては例えば「志位GJ!」の声といったものをとにもかくにも一つの流れにしていくことの方が大事なのではと思わずにはいられません。

差別される側からの謝辞や情報提供だけでなく、矛盾に直面する経営者、管理職、正社員からも好意的な反響が寄せられているという。

僕たちはもちろん「一つ」ではありません。けれども同時に「ある観点において」、「ある文脈において」ならば「一つ」になることが出来ます。

例えば「性別による差別」を考えてみましょう。男性と女性は生物学的に全く異なるカテゴリーです。けれども「同じに扱われるべき文脈で異なった扱いをされること」が社会的に否とされることでその「異なる」という「区別」は「差別」になるのです。例えば企業が労働者を雇用する際、給与体系を構築する際に「その区別を持ち込む」ことは「差別」とされます。「女性と男性は同じ労働者として扱われるべき」という社会的な合意が存在するからです(100年前はそうではありませんでした)。差別は自然的な事実ではありません。僕たちがこの世界をどのように認識し、分類し、そのカテゴリーをどのように扱うかという態度によって差別は「事実となる」のです。

「(私とあなたは違うのはもちろんだが)この文脈において私とあなたは同じとして扱われるべき」これが「社会的合意」の獲得を目指さんとするあらゆる運動の原点です。「違いを踏まえつつ、同じであると主張する」ことは確かに困難ですが、「文脈」を見失い、「誰が(何が)私とあなたを違うものとして扱っているのか」を見失えば「流れ」は決して作られることはありません。

(追記)
かの女性職員が「サヨク」であるとして、バッシングされているようです。これまた非常に興味深いですね。だって労働問題を取り上げて「2ちゃんねる」で株を上げた志位氏はそもそも「共産党」の委員長なわけですから。なるほど彼女が「アカ」だったとしましょう。So what?「アカ」は労働問題に言及してはいけないのですか?とすれば、その「頭目」たる志位氏に関してはなぜ「GJ」なのでしょうか。

(関連Entry)
労働・モラリズム・分割統治
宮台真司の差別論

2008年02月02日

「橋下徹の当選」の意味

はてなブックマーク - ぼやきくっくり | なぜ大阪府民は橋下徹氏を選んだか
はてなブックマーク - はてなブックマーク - ぼやきくっくり | なぜ大阪府民は橋下徹氏を選んだかあたりの議論に関して。

はてなブックマーク - 「ネガティブ・キャンペーンだ!」というネガティブ・キャンペーン - モジモジ君の日記。みたいな。

この中のD_Amonさんのコメントにあるように、橋下に投票するということは橋下の発言に見られる価値判断にコミットすることと事実上同等の意味を持つ。

「橋下氏の財政再建策に同意しただけで、核武装発言にはコミットしていない」とか、「買春は中国へのODA」という発言には同意していないとか、まあどのような意図で彼に投票したのか(支持を与えたのか)は人それぞれだろう。

が、ポイントは日本において憲法で定められている「自由委任の原則」の下ではそのような「意図」はあまり意味がないということだ。以前僕が書いたことを再掲してみる。

例えば、国会議員は選挙区の有権者に対する奉仕者ではなく、国民全体に対する奉仕者だ、とよく言われる。さらに言えば「個々」の国民の意思が問題なのではなく、「全体」としての国民の意思が問題だ、というわけだ。でも一体「個々」ではない「全体」ってどういうものなんだろうか。少なくとも具体的な存在、指示対象ではないことは確かだ。とすると、これは「法人-機関」関係とよく似てくる。具体的存在ではないものは、それがこの世界に現象するために機関(=器官)を必要とする。つまり「国民(全体)の意思」なるものは、それが現象する為に国会議員がいなければならない、というわけだ。もう少し強調して言うと、議員が存在して(具体的に行為したり、意思を表明したりして)初めてその背後に「国民の意思」なるものが想定される、ということになる。

これはかなり驚くべき考え方ではないだろうか。個々の有権者が何を考えていようと一旦議員が選出されれば、彼が意思したことが(それがどのようなものであれ)すなわち国民の意思なのだ、というのなら、事実上代表者は国民の意思なるものを恣意的に解釈せざるを得ないし、つきつめればそうすべきだ、ということになりかねないからだ。

ざっくりと言ってしまえばこれが「自由委任」というものの「原理」だということだ。彼は自身を支持した大阪府民がどのような「意思」を持っているのかを恣意的に解釈できる(解釈せざるを得ない)。彼が為した、政治家としての認識が問われる種々の発言について彼は、「支持された」=「それが民意である」と解釈出来るのである(そしてさしあたってそれを否定出来る内在的制約は存在しない)。それは例えば石原慎太郎についても同じ。「東京オリンピックには賛成しないが…」というような「東京都民」なるものの「真の意図」とやらがあったとして、それを石原が汲み取るべき理由はない。

そのこと(=選挙後には彼は「民意」の解釈権をさしあたって独占できるということ)を弁えていれば、橋下徹が政治家としてどのような認識を持っているかを知らせることがなぜ否定的に捉えられなければならないのかさっぱり分からない。繰り返しになるけれど、「民意」は恣意的に解釈され、橋下の主張にさしあたってコミットしたとみなされる(みなされざるをえない)のだから、それを前提に少なくともあらゆる材料は選挙前・選挙中に出されるべきでないの?それが候補者にとって肯定的なものであれ、否定的なものであれ。

ま、「郵政民営化」だけで他の議論を全くせずに勝った党が、反対派の復党を認めたり、憲法改正をぶち上げたり、「環境の為に道路特定財源は必要」などと法螺を吹きまくったりの状況をみると、そのことの重要性を僕は非常に強く感じるわけだけれども、どうやら世の中には「候補者間の批判は許されず、かつ候補者は自分に都合の良いことばかり主張する」選挙こそが「理想」と言い出す、有権者の眼力をもはや「超能力レベル」まで過大評価しかつそれを前提に何事かを語ろうとする人がいるようで。

ちなみに「ネガティヴキャンペーンは戦略的に良くない」という議論は、ほぼ実証不可能。実際それで勝利した(正確には、ネガティヴキャンペーンを張った陣営が勝った)例は沢山ある。近いところでは、あの小泉の郵政選挙でも「郵政民営化反対派は既得権益と繋がった抵抗勢力」とレッテルを張るというネガティヴキャンペーンが行われたし、少し遡れば東京都知事選「美濃部vs.石原」でのものも有名。にわか「選挙参謀」面するのは自由だけど、説得力ゼロ。

(追記)
選挙後

「(発行しないという)それまでのコメントは政治的な戦術もある」

(橋下氏は府債を発行しない公約を掲げて知事選を戦った。報道陣から公約の重みを指摘されると)「あらゆることを知ったうえでしか発言できないのであれば、今までの行政と変わりがない」

選挙中】 

(「府民所得50万円アップ」という政策について)「根拠を示していない。ビジネスも経済もまったく知らない学者あがりを大阪府のトップにしていいのか」
「府民所得50万円アップ」→「府債を発行しない」・「ビジネスも経済も」→「府の財政も」・「学者あがり」→「タレントあがり」に変えてみましょう。面白いものが見えてきます。「熊谷氏の政策にはリアリティがまるでない」と批判していた人たちよ、さあ存分に蜂起せよ!

(再追記)

(「府民所得50万円アップ」という政策について)「根拠を示していない。ビジネスも経済もまったく知らない学者あがりを大阪府のトップにしていいのか」

毎日新聞『橋下大阪府知事:教育公約を見直し…「机上の空論だった」』
大阪府の橋下徹知事は13日、就任後初の定例記者会見で、知事選の公約として掲げた習熟度別クラス編成導入や府立高校の学区制撤廃について、「机上の空論だった」と述べ、根本的に見直すことを表明した。
「府民所得50万円アップ」→「習熟度別クラス編成導入(学区制撤廃)」・「ビジネスも経済も」→「教育も」・「学者あがり」→「タレントあがり」に変えてみましょう。面白いものが見えてきます…というかそもそも彼が「知っている」と胸を張って言えるのは一体何なのでしょうか?専門分野の一つであるはずの憲法学についても頼りないようですけれども。

2007年10月04日

自縄自縛な言説について

沖縄の集団自決に関する教科書記述を巡る問題で、読売や産経などが「教科書は政治によって干渉されてはならない」などと主張している。

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2007年08月03日

往生際の「美」について

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2007年03月01日

「ターゲット」の政治性?

ところで先ごろ「死ぬ死ぬ詐欺」とやらで「心臓病に苦しむ女の子を責めたいのではなく、寄附を集めながらまともに会計責任を果たしていないことを批判する」みたいなことを言っていた人たちがいたのだけれども。

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2007年02月21日

(続)「おこづかい帳」

おこづかい帳」で書いた残りみたいなもの。

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2007年01月30日

「誰が言ったか」の重要性

インターネットの世界ではほんとうに「何を言ったか」のみが重視されているのだろうか。

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2007年01月18日

政治と「風向き」

今回の不透明な事務所費計上問題では、1人の閣僚が辞任に追い込まれ、さらに2人の有力閣僚が窮地に立たされるなど、事が大きくなっている。けれどもよくよく思い出してみれば、実は今回の構図とそっくりな問題が前内閣の時代、しかも閣僚どころか内閣総理大臣その人について持ち上がっていたのである。

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2007年01月17日

「戦後」は捨てたものではない?

「核の傘は存在していない」とか「アメリカは自らリスクを負ってまで日本を守ってくれない(日米安保は実は機能していない)」という事実認識を披瀝する人たちがいる(この記事や小林よしのりや、まあ、その他の保守系の政治家・文化人の議論でもたまに見かける)。

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2007年01月16日

「おこづかい帳」

ちょっとした縁があって、ある政治団体の政治資金収支報告書の作成過程に立ち会ったことがある。私見で言わせてもらうなら、それは「おこづかい帳」レベルのものだった、と記憶している。

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2005年10月05日

STOP THE KOIZUMI

「Stop the Koizumi」キャンペーンに参加することにしました。

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2005年06月17日

真の正嫡を巡って

花田兄弟を巡る騒動を見て思ったこと(以下の文章は多分に個人的な憶測・妄想によって構成されていますので悪しからず)。

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2005年03月12日

「ネットジャイアン」

先日の韓国大統領盧武鉉の演説について「韓国への戦後の補償は決着済み。いまさらそれを蒸し返すのは非常識」と主張する人たちほど、小泉の靖国参拝問題では、「日本人には罪はない。罪があり批判されるべきなのは一部の軍国主義者(主にA級戦犯)であり、その他の日本人も中国人も同じ被害者だ」とした日中共同声明については、それを反故にするような(「A級戦犯も日本の礎となった尊い英霊なのだから国を挙げて称えるべき」といった)発言をする。

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2004年12月10日

或る二つのお話

暴力事件を起こし、起訴までされている(刑が確定し罰金を払った)男性芸能人がいる。被害者の女性は身体的にはもちろん、事件発覚直後の釈明の場ですら、その芸能人が嘘を付き自分のやったことを誤魔化そうとしたことに精神的な意味を含め、二重に傷ついた、とその心情を吐露している。両者の和解の目処は全く立っていない。

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2004年08月01日

重慶でのブーイング

アジアカップにおける重慶の中国サポーターの日本代表チームに対するブーイングで「スポーツに政治を持ち込んでいるから良くない」と批判する人の多くが、一方で「中国へのODAは停止せよ」などの「政治的発言」を繰り返すのは何故なんだろう?矛盾してると思わないのかな。

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2004年07月08日

「No」という意思表明

当Blogではお馴染みのセリフではあるのだけれども、なぜ国家は必要なのか。なぜ国家権力に従うべきなのか、これは全く自明な問いではない。

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2004年07月06日

「三菱」ばかり燃えている?

三菱車の火災次々…大半は欠陥と無関係?」(読売新聞)

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2004年06月16日

永田町のドン・キホーテ

「教育基本法では個人の尊厳が強調されている。日教組の教育とあいまって、個人の尊厳が行き過ぎて教室破壊が起こり、生徒同士が殺し合いをする荒廃した状況になってきている」(平沼赳夫前経産相

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2004年01月14日

大人共同体を防衛せよ

昨日は色んなところで成人式の話題で盛り上がっていたようだけど、この問題って近年になって急に話題にされ始めたような気がする。成人式でハメを外す人たち自体はずっと前からいた。

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