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2007年08月27日

ペアチケットの行方

昨日大学時代の友人の結婚式の二次会に行ってきました。

宴もたけなわ、恒例のビンゴ大会が始まったわけですが、なんと「東京ディズニーランド(ディズニーシーも可)のペアチケット」なるものが当たってしまった訳です。年中独り者のこの僕に。

なんとなくバツが悪かったので、その場では「いやあ、何とかクリスマスまでに相手を見つけてみるよ」などとヘラヘラと笑っていたわけですが、誰よりもその無理さ加減を自覚している僕としては、家に帰ってつい姉に「これって一人で二回行っても構わないわけだよね」などと弱音を吐いてしまったわけです。いや、間髪いれずにツッコミをくらいましたよ。

「アンタ二回も行くほどディズニーランド好きじゃないじゃん。つーかそもそもディズニーランド自体に興味すら無いだろ!」

「はっ」と我に返りましたね。ペアチケットごときで、何をあたふたしておるのだと。というわけで、問題のチケットですが今のところ「オークション行き」が確実な情勢となっております。

では。また。


2006年12月30日

「嫌われ松子の一生」

原作は読んではいないのだけれども、Wikipediaなどを見てみると、監督自身の解釈・読み替えが相当に為されている、とのこと。

嫌われ松子の一生

ストーリーテラーを務める松子の甥(瑛太)や松子の元恋人(伊勢谷友介)が「松子は神様だ」とそのものズバリな表現をしたり、松子の甥の恋人(柴咲コウ)は「人間の価値は人から何をしてもらったかではなく、人に何をしてあげたかだ」というセリフを言っていることから見るに、どうやらこの監督は主人公の松子(中谷美紀)を、無私の愛を他者に分け与える「神」(或いはマリア)になぞらえたかったようだ。

けれども仮にそうだとすると、この監督の目論見(読み替え)は見事なまでに成功していない。

確かに松子は付き合った多くの男たちにひたすら尽くし、身も心も捧げるわけだけれども、ほとんどの男たちに対して何の影響も及ぼしていない。男たちはそれによって目覚めることはないし、人生の真理のようなものにも気づくことはない。松子は単に、その思い込みの激しさと「重さ」を疎んじられ、捨てられるだけの繰り返し。

また、松子の方も「無私の愛」というよりは、幼い頃から父に愛されていなかったという思い込みによるトラウマで(もちろんその事情自体は同情に値するものかもしれないのだけど)、題名の通り「嫌われたくないが為」というどちらかというと「自己中心的な動機」が先立っていたように思う。

そのような無茶な読み替えをするよりは、(私見だけれども)どんなに男たちに裏切られても、それでも妄想をたくましくしひたすら自己正当化を繰り返しながら生きていく・生きていかざるを得ない人間というものの生への欲動の根深さといった側面を全面的に打ち出したほうが良かったのではないだろうか。

…と、批判ばかりしてしまったが、エンターテインメントとしてはとてもよく出来ている作品。中谷美紀の「弾けっぷり」も何ともキュート。2時間全く退屈しない。

2006年10月21日

「宮廷女官チャングムの誓い」

宮廷女官チャングムの誓い最近「チャングム」にハマっている(しかも家族じゅうで)。

どれくらいかというと、先週と先々週の日曜日には朝10時から夜10時くらいまで飲まず食わずでぶっ通しの「チャングム上映会」を敢行するくらい。

現在韓国映画が充実していて、傑作が次々と出ていることは知ってたんだけども(よく観るし)、テレビドラマはどうも…という印象が強かった。

けれどもこの「チャングム」に関しては、ただただ素晴しいの一言に尽きる。複雑な因縁と人間関係、様々に絡み合う思惑と策謀、そして流転し続ける因果の皮肉。善玉・悪玉を超えた人間臭い魅力を湛える登場人物たち。観る者はその中に誰か1人は必ず感情移入できるキャラクターを見出せるだろうし、また物語の見事な展開に画面から目が離せなくなるだろう。まさに傑作である。

次々に事件が巻き起こり、展開が起伏に富むという点では、今人気のアメリカのドラマ「24」シリーズとも同じなのだけれども、何と言ったらいいのだろう。「24」は「事件はあってもストーリーがない」のに対して、「チャングム」はそこにきちんとストーリーがあるという感じだろうか。点が線になっているというか。それも決して単純な線ではなく。

またこのドラマは単純な勧善懲悪でもサクセスストーリーでもない。

例えば敵役のチェ一族は、放っておけば宮中に起こるであろう血で血を洗う権力闘争を、影で処理する役、「汚れ役」を担うことでその存在意義が認められ、畏怖されもしてきた。いわゆる「マフィア」だ。もちろん彼らは善人ではないし、あくどいことに手を染めまくるのだけれども、ならば彼らを正義の名の下に追放すれば事は済むのか?おそらくそうではない。事実、物語の後半、視聴者はそのことを主人公チャングムとともに「しみじみと得心」することだろう。

というわけで、途中から観始めてもたぶん充分面白いのだろうけど、その真髄を味わうにはやはり最初から連続して観ることを強くオススメしたい。ただしとんでもない長さだし、いったん観始めると止められなくなり、せっかくの休日がまるまる潰れる可能性があるので、そこは注意が必要だ。

ちなみに僕は、健気なチャングムに確かに感情移入した部分もあったのだけど、やはり終始アンビバレンツな感じを拭えなかった。なんでしょう。やはり彼女が色々な意味で「天才」だからだろうな。天才の「無邪気さ」ってほんとうに「残酷」なんですよね。周りにいる「単なる秀才(それも宮中に集まるような優秀な人であればあるほど)」にしてみればそれ以上の悲劇というか、惨めさはないわけだから。

それにしても仮に、このレベルの作品が1年に1本、いや、数年に1本であれ韓国で観ることが出来るのだとすれば、「韓国のお人はほんとうに羨ましいですねえ」と言わざるをえないし、日本の(少なくとも近年の)ドラマはレベル的に完全に追いつかれたどころか、追い抜かれて逆に相当の差をつけられていると見るべきだろう(というかそもそも日本のここ最近のドラマは、文字通り「お話」になっていない)。

(追記)
昨日NHK総合にて「チャングム」最終話が放映された。ところでNHKは放送にあたり多くのシーンをカットしている。そして残念ながらDVDもノーカット版ではなく、NHKが編集したものがそのまま収録されているだけ。そこで、ご存知の方も多いとは思いますが、ドラマの歴史的背景、オリジナル版との比較等、カットされているシーン含めて詳細なストーリーガイドを掲載されているBlogをリンクしておきます。ちなみに、僕は放送終了後PCの前に飛んできてはこのBlogで放映された回のカットシーンをチェックするのをいつも楽しみにしていました。(11/19)

『大長今』ストーリーガイド(現在リンク切れ)→作者「solcov_b」さんのサイト

2006年03月06日

「ホテル・ルワンダ」

実はもう2週間以上前に観ていたりする。感想を書こうかなとは思っていたのだけれども、色々私的な事情が重なってBlog自体書けなくなっていた。

個人的にはswanさんの見方に賛成。彼は単純に家族を守ろうとしただけでも、職業倫理を貫こうとしただけでもない。

パン売り少女は内生的に社会的役割を演じた結果、正義が実現された、のではなく、むしろ、少女が志向する社会的善と合致する規範(法令)を利用し、差別的な因習に対して武装したのだ、と。職業倫理は悪しき因習に対する盾である。
僕もそう思う。主人公のポールは自分と自分の家族を最優先に守ろうとしながらも、やはり最終的にはそのエゴを超えたところにたどり着く。彼は「悪しき因習」、傍目からは何の違いもないような人たちが相手を「ゴキブリ」と罵り・虐殺することに麻痺していく大きな流れ、そのことにプロテストする。そこにはやはり普遍的な倫理があったと思う。

ちなみに僕は、虐殺を止める為に個人個人の倫理に賭けようとする町山説も否定しようとは思わないが、やはり理性的なメディアが介在した民主主義体制の成熟がまず必要なのではないかと思った。どんな社会でも市民の声が感情に流されることはあるだろう。そこに理性の力で棹を差し、「逆バネ」を効かせる内在的な力が存在すること、それを「民主主義的成熟」と呼ぶならそれこそが、まさにあの時のルワンダに欠けていたものだったのではないか、と思う。

傍目には何の違いもないはずの「民族(?)」について、一方を「ゴキブリ」と罵り、「抹殺せよ」と呪い・煽るラジオの声。その声の主は最後まで明らかにされず徹底的に匿名である。つまりあの声は他者とされたものに対する、僕たちの内に突如として現れる正体不明の、感情的な憎悪の声なのだといっていい。そしてそれが映画であると分かっていても目を背けたくなるような虐殺を正当化するのだ。あの声に屈服するかしないかそれ以前に、それを相対化するだけの多様かつ寛容でさらにまた強靭な言論空間が保障されてあるか、構築できているかがルワンダと非ルワンダを分けるのではないか、僕はそんな風に思った。

2006年02月15日

神は誰に微笑むか

ルキノ・ヴィスコンティ「ベニスに死す」を観たので感想でも。

ベニスに死す話としては単純。音楽家としての行き詰まりに加え体調を崩していた主人公、グスタフ・アッシェンバッハ(ダーク・ボガード)が休養地として訪れたイタリアのベニス。が、ベニスは実はコレラの蔓延する「死の町」だった。彼はそこでギリシャ彫刻のような"奇跡"の美少年タージオ(ビョルン・アンドレセン)に出会い、魅了され、町に留まりつつけることの危険を知りつつも、彼の後を追い、町中を徘徊する。やがてコレラは彼を侵し、彼は海で戯れるタージオを浜辺から見つめながら死んでいく。

思ったのはこれは「アマデウス」とちょうど逆のエンディングなのだなあということ。

アマデウス「アマデウス」ではモーツァルト(トム・ハルス)の天与の才に誰よりも魅了され、理解していたサリエリ(マーレイ・エイブラハム)は嫉妬に負け、策を弄しモーツァルトを死に追いやる。つまり神の子を殺し、自分が生き延びることを選択した。その結果彼は自分の作った曲がその後一切省みられず、逆にモーツァルトの遺した"奇跡"が光り輝き続けるのをその目で見続けなければならない羽目に陥った。神は狡知に長けた、賢しらな「裏切り者」に最も過酷な罰を与えたのだ。

一方「ベニスに死す」のグスタフは、神に愛された者の"奇跡"を受け入れることで、幸福な死を迎える。死化粧が汗で崩れた醜い死に顔には、至福の微笑さえ浮かんでいた。神は自らに膝を屈する者を自らの国へと迎え入れたというわけだ。

ここには神が絶対的な暴君であること、そして彼が為す「才能(容姿であれ、作曲家としての才能であれ)」という財の配分の背景には、「理不尽さ」しか存在しないことが前提とされている。人にはその「理」を、超越者の合理的な意図を見通すことは出来ない(というか、合理的な解釈を拒むものを超越者とかなんとか呼ぶわけなのだが)。

そしてその配分に異議を唱えたり、歪めようとする者を神は許さない。いかにそれが平等という経験的正義に反していようと、それは人間の尺度であり、そうである限りその尺度を持って神に干渉することは神への裏切りなのだ。「不条理は不条理のままで受け止めよ」。そのメッセージがこの二つの宗教的な映画には溢れている。

2006年01月19日

「綱引き」なんて知るか。

喪男にそんなことすると惚れちまうだろうがー!

これを読んで思い出したのは、高校時代、クラス別対抗体育祭で競技種目に「男女混合綱引き」があって、僕自身はそれに出る予定にはなってなかったんだけど、当日直前になって同じクラスの数人の女子(これもなんか懐かしい言葉ですね)から、「(微妙に上目使いで)男子が足りないの…」と女の子モード全開でお願いをされたことかな。別に「惚れる」云々というレベルではないので、話がズレてると言えばそうなんですが。

ちなみに、「しかたないなー、やってやるか(微妙にニヤケながら、かつそれを表面上は繕いつつ)」と校庭に行ってみたら、いたのは僕を含め全部で男子3人だけで、さっき僕を口説いてきた女子どもは少し離れた校庭の隅で、こちらを一瞥すらせず、何ごとも無いかのように談笑していた、というオチ。えーと「男女混合」と聞いてきたんですが、えーと、そもそもこの事態は「男子が足りない」という問題なんでしょうか。つーか、お前らはそこで何してやがるんですか。

対戦相手は男女含めて定員十数人、ほぼ全員参加でしたので、決着は「オーエス!」の一言で着きましたとさ。ちゃんちゃん。つーか、やるだけムダだろ、それ。

(追記)
書き終わって気づいたんだけど、この「綱引き」、今流行の「男女混合」じゃないっすか!そうか!実は彼女たちはアンチジェンフリだった!…のか?

2004年11月28日

「愛しのローズマリー」

愛しのローズマリー大変なことになった。

今日、僕はどうやらグウィネス・パルトロウに恋をしてしまったらしい。彼女がどうにも頭から離れない。夢にまで出てきそうだ(大歓迎だけど)。自分が「醜女」であるという自覚がある故にハル(ジャック・ブラック)の求愛に戸惑い、はじらう本作でのグウィネスは、ずばり「可愛さ過剰」です。あれだけの美女にあんな表情をさせるのははっきり言って反則。

本作の僕の感想は以上です。(公式サイトはこちら

(追記)
グウィネスの特殊メイクの様子を撮影した写真を発見

2004年10月11日

「ライフ・イズ・ビューティフル」

Life is Beautiful第二次世界大戦末期のイタリアで暮らすユダヤ系イタリア人のグイド(ロベルト・ベニーニ)。彼は陽気で自由で人生を心から愉しむ達人。高嶺の花の美人令嬢、「お姫様」ドーラ(ニコレッタ・ブラスキ)をあの手この手で口説き落とし、一人息子のジョズエ(ジョルジオ・カンタリーニ)をもうけて、幸せな日々を送っていた。しかし戦争の色が濃くなり、彼ら家族もついに強制収容所に送られてしまうことに。絶望と過酷な状況に投げ込まれながらも、グイドは幼い息子にはこの悲惨な現実を悟らせぬよう、ある一つの嘘を思いつく。「これはゲームなんだ。一等賞になったら戦車がもらえるんだよ。」

多くの人が評するように、笑いあり、涙ありの「完璧な」感動エンターテインメント。特に主人公グイドに関しては、その何があっても前向きで決して諦めない強さ、家族への限りなく深い愛情に心打たれない人はいない、とほとんど断言してもいいくらい。他にもドーラの凛とした綺麗さ、ジョズエの信じがたいほどの可愛らしさはまさに必見の価値あり。

ただ気になった点が一つだけ。この映画はグイドのキャラクターがあまりに「立ちすぎている」。妻のドーラはグイドが仕掛けてくれる様々な演出を「享受し続けるだけ」の受動的存在に終始し、息子のジョズエも、父の提出する世界観、嘘、演出、を微塵も疑う事はない、文字通りの「無邪気な子供」。2人ともグイドの創りだす舞台設定の上、手の平の上で踊るだけの存在、キャラクター(「コマ」)でしかないのだ。

つまりこの映画には、グイド以外の他者の世界観が存在しない。グイドの世界観とドーラやジョズエの世界観が交錯するということがない。全てがグイドの一つの世界の中できれいに完結してしまっているのだ。それはそれでスッキリして見やすいという効果もあるのだろうけど、ひねくれた見方をすれば「平板にすぎる」ということも言えると思う。

ところで今日は僕の誕生日。僕としてはいまのところはなんとか「ライフ・イズ・ビューティフル」かな。まだ人生にはそんなに飽きてない。

2004年08月25日

「Ghost World」

世間と馴れ合うことは自分を失うことだ。自分なんて持たず周りに合わせて戯れることが、「社会人」になるってことかもしれない。なるほどね。でも私は嫌だ。そういう奴を見ていると「イライラ」する。だいたい周りにいる大人なんて、客観的に自分を見られないバカばっかりだし。

でもあんなに仲が良くて、バカな遊びに付き合ってくれていた親友は、何だかんだ言いながら仕事も、一人暮らしのアパートもきちんと決めて着々と世間ってやつに溶け込み始めた。私だってこのままじゃいられないってことくらいは分かってる。で、焦って無理に周りに合わせようともがいてはみたものの、うまくいかず空回り。やがて「イライラ」は孤独感・疎外感に変わり…

Ghost World映画「Ghost World」はそんな自意識過剰気味の女の子の、高校卒業後進路選択を迫られる時期を描いた、青春映画だ。

「自分らしく」だとか「自分探し」だとか「日常のしょぼさ」だとか「いまさら」観の漂うテーマではあるのだけれども、それを差し引いても思春期の若者にとって必ず一度は通ったはずの時期の心情を丁寧に、繊細に、そしてポップに描いた秀作。メタフォリカルなラストもなかなか凝っていて良い。というわけでオススメです。

蛇足。ヒロインの「黒ぶちの眼鏡っ娘」イーニド(ソーラ・バーチ)は決して「美少女」ではないですが、(僕を含めて)そういう趣味を持つ人にはたまらない、マニアックな可愛さがあると思います。映画ではイーニドがコンサバ系美人の親友レベッカに向かって「世界中の男はみんなアンタみたいな女の子が好きなのよ」と拗ねた捨てゼリフをいう場面があるのですが、そんなことないと思うぞ。

2004年07月27日

「恋人よ」

再放送されていた野沢尚の名作ドラマ「恋人よ」観ました。良かった。連ドラを観る快楽というものをきちんと味わわせてくれる、濃いドラマだった。これって確かノベライズ版がドラマと同時に出されて「観てから読むか、読んでから観るか」とかいうキャッチコピーで話題になったんだよなあ。そのせいか、ストーリーの完成度が高くて、最後の最後まで丁寧に筋がまとめられていた。

それから、特筆すべきは鈴木保奈美。一本芯があって強いと周囲に思われ、自らもそう振舞うんだけど、実は脆い(弱音を吐かないのではなく、吐けないタイプ)…みたいなそういう役が多いんだけど、このドラマの役どころもまさにそれ。自分の「テリトリー」ということもあるのか存在感がとにかく抜群(凛としてて、きれいで…ちなみにおさげのエプロン姿なんてもう…マジ「激萌え」です)。

相手役の岸谷五郎との手紙のやりとりはこのドラマのポイントの一つなんだけど、彼女の手紙の文体が少し硬めなのも、彼女の雰囲気にきちんとハマってるし。やはりその雰囲気の持つ説得力みたいなものが、ドラマに力を与えていたと思う。

特にラストシーンはドラマ史に残るレベル。ちなみにあの主役の二人が立っている場所は少なくとも「この世」ではない。「輪廻」が始まる場所・書かれたはずの無い手紙が語られる場所…つまりあの場所は「あの世」或いは「この世」と「あの世」の境界線にある。セリーヌ・ディオンの「この世」のものとは思えぬ異様なまでの「声圧」が木霊し、毒々しい真紅が背景に広がり、鈴木保奈美が例のあの眉間を1mmも動かさない「アルカイックスマイル」で佇む「その場所」はまさに、「この世ならぬ世界」を鮮烈に表象している。だけれどもそのオカルティックでリアリティの無いシーンが最も僕たちの胸を打つというこの逆説は、僕たちの「人生」という観念がどのように成り立っているかを示唆するだろう。僕たちの生は経験的な次元のみで成り立ってはいないのである。

…というのはどうでも良いけど、11月発売とやらのDVDマジ欲しいんすけど。

(追記1)
鈴木保奈美演じる「愛永」が岸谷五朗演じる「宇崎航平」に宛てた最後のラブレターを書き留められている、あやめさんの『水兵リーベ僕の船♪』のEntryをクリップ。ちなみに些細なことですが「今はただあなたのこれからの長い人生に揺るぎ無い幸福が齎される事をお祈りいたします」の「揺るぎ無い」は「揺るがせの無い」ではなかったでしょうか。いずれにせよ、鈴木保奈美という女優さんの真骨頂が発揮されたシーンですよね、ここは。

(追記2)
「恋人よ」が現在(8/25)色んな地域で再放送されているらしいですね。放映後の余韻が残っている方もかなりおられるようで、「ドラマ 恋人よ」という検索での当サイトの訪問者が激増しております。ですが、御覧の通り、ここにはこんなしょうもない感想しかありません。ごめんなさい。で、「ふざけんな!」とお怒りの方に、せめてもの罪滅ぼしとして、台湾の「恋人よ」特集サイトをリンクしておきます。その充実ぶりたるや「圧巻」の一言です。

(追記3)
上記の「特集サイト」が現在(2007.9)リンク切れです。というわけでそれには少し劣りますが、やはりこれも台湾のサイトを2つ紹介しておきます。
其の1
其の2

2004年06月23日

「ぱど厨」とか映画とかドラマとか

最近話題の「ぱどタウン」、「ぱど厨 」だけど、皆が何でそんなにこぞって取り上げるのか、取り上げたがるのか分からない。

そもそも「ぱどタウン」はコミュニティとしては「2ちゃんねる」なんかと比べ物にならないほどマイナーだし、しかも、「祭り」などと称してターゲットとなったサイトを閉鎖に追い込むということもないわけで、全体としての影響力も実害も乏しい。それから「はしご禁止」、「素通り禁止」といった特異なルールの存在、という点に関しても、第三者からみて参入についての敷居の高いネット上のコミュニティは他にもいくらでもある。とりあえず破綻しないでうまく回っているんだから、特に何も言うべきことはないんじゃないかなあ。

僕としては内輪で馴れ合うだけに満足できないで、外部に対して火の粉(しかも非常に有害な)をしばしば飛ばさずにはいられない「2ちゃんねらー」の方がよっぽど問題だと思うんだけど。

殊更「ぱど厨」を蔑んでるbloggerにしたって彼らに比べてそれほど「大人」ってわけじゃない。というか「いい大人」なら「はてなダイアラー映画百選」くらい、穏やかに回せるはずでしょうに(6/1~6/10近辺の日記をお読みになるとよろしいかと)。

そうそう。映画といえば、DVDを観るペースはまだ衰えていません。最近観たのでダントツに面白かったのは、スタンリー・キューブリック「時計仕掛けのオレンジ」。ピーター・ウィアー「モスキート・コースト」も傑作。「クレイマー、クレイマー」は父親役のダスティン・ホフマン、その子供役のジャスティン・ヘンリーの演技力勝ち(ただオマケについてた大人になったジャスティン・ヘンリーの映像はちょいと衝撃的でありました)。

ついでに映像作品つながりでドラマ関係の感想も書いておこうかな。

農家のヨメになりたい」は最後まで深田恭子の「萌え演技」が楽しめたので満足。「オレンジデイズ」はとにかくストーリーが御都合主義、場当たり的で劣悪。ただ柴咲コウに関してはセリフが使えなかったことが彼女に新境地をもたらしたと思う。精一杯に表情を使った演技はとても豊かな表現力があり、キュートだった。それから話の種に「冬のソナタ」も1話だけ観たんだけど、これまた内容の薄さにビックリ。「全20回」とのことですが「5回」くらいにまとめてから出直してきやがれ。バカバカしい。

2004年05月25日

「農家のヨメになりたい」

NHKドラマ「農家のヨメになりたい」は深田恭子がとにかく可愛くて良かった。「農業」に関して言えば、ちょっと無茶な設定も散見されるんだけど、まあそんなのどうでもいいや。僕は彼女が可愛く撮られていれば、それで満足。

ちなみに「農業」と言えば、今日本テレビでTOKIOがやってる「DASH村」のせいで、それに憧れて農作業を体験してみたい、という人たちが結構いるとか(深田恭子もこのドラマに関するインタビューで「DASH村」のことを口にしていた)。僕自身は、そういう流行については、まあ否定も肯定もしませんが。

ただあの番組の中で行われるほとんどのイベントって今はどこの田舎に行ってみてももう誰もやらず、廃れてしまったモノが多い。

機械を使わずに、昔からある農具や機具を使って再現するのが基本コンセプトらしいんだけど、そもそも、その農具や機具自体がもう存在していない、というケースは少なくない。或いはもう「技術」とか「知識」とかをもっている人が高齢化してあまりいないというのもある。

田舎には、「近代」に染まらない「昔ながらの伝統」、「無垢なもの」があるはずだ、というノスタルジーのようなものを「DASH村」は視聴者に喚起するようなんだけど、そんな素朴な思い込みで来られても、多分田舎の人は困ってしまうだろう。彼らはいまや都市の人間と文化的にもほとんど同じ人種だからだ。要するにあの番組はいまや喪われてしまった「フィクション」を描いた、純然たる「バラエティー番組」なのだ。

おそらく「DASH村」を求めて田舎に向かう都市の人間は否応なしにその事実を突きつけられるはずだ。ただ、そのことを知る、体験するというのは多分良いことなのだろう。だから、僕はそういう意味で「DASH村」を否定しない。

深田恭子の話をしていたはずがだいぶ逸れてしまった。そうそう、深田恭子と言えば、夏のドラマで「南くんの恋人」をやるらしい。10年くらい前に高橋由美子主演でやったののリメイクですね(主題歌も高橋由美子の「ともだちでいいから」をカバーするとか)。これもすごく愉しみ。

(追記)
主題歌については情報が間違ってました。主題歌は嵐の「瞳の中のGalaxy」だそうで。

2004年05月24日

「シザーハンズ」

先日我が家にDVDプレーヤーが新しく入った。それ以来というもの姉は狂ったようにDVDをレンタルしてきて、夕方以降家のテレビを独り占めしている。えーい邪魔だ。僕はプロ野球が観たいのだ。特に夜8時半頃からの巨人戦が観たいのだ。中継陣が自滅を始めた時の堀内の自嘲的な薄笑いが観たいのだ。

シザーハンズところが、今週姉が借りてきた映画は割とヒット。その名もご存知「シザーハンズ」。

主人公エドワードに扮するジョニー・デップのほとんど表情だけで見せる繊細な演技は素晴らしいし、ヒロインのキムを演じるウィノナ・ライダーも(いまや万引き女優として悪名を馳せてしまっているようだが…やれやれ)本当に可愛い。それに何といっても物語が、多少強引な筋が散見されるとは言え、とても美しく切ない。というわけで、以下感想。

エドワードの「手=ハサミ」は街の人たちとのコミュニケーション手段として重要な役割を果たす。でもそれは一方でそれに触れるあらゆるモノを切り刻み、傷つける凶器でもありうる。また、その「手=ハサミ」は「植木」、「犬の毛」、「髪」といった無機物に向かう時その「手」は賞賛を浴びる。でもひとたび「人」に向かえば、一転して彼の「手」は「恐怖」の対象になりうる。彼の「手」は物語の中で常に両義的な意味合いを持たされる。

とはいえ、これはどんなコミュニケーションツールを用いる際も同じだ。どのようなコミュニケーション、例えば言葉によるものであれ何であれ、「誰かを傷つけるかもしれない」という可能性を排除する事は出来ない。エドワードが街の人間として暮らし続ける、ということはその可能性をも前提として受け入れる、ということを意味するのだ。

けれどもエドワードは結局「誰をも傷つけない」ことを選択し(それはあらゆるコミュニケーションを断念するということだ)、街を去り城に帰って行く。「誰かを傷つけうる自己」を発見し、戸惑い、たじろぐ彼は、現代日本の「ひきこもり」を象徴しているようにも見える。

もちろんその彼を「ナイーヴに過ぎる」と簡単に切って捨てることは出来ない。彼が暮らそうとした街の人々が受け入れようとしたのは、誰かを傷つけうる可能性をも含めた彼全体ではなく、そのほんの一部分だけ、植木屋として、美容師として役に立つ手先の器用な存在、要するに「入れ替え可能な機械」としての彼でしかなかったからだ(もちろんこのことはハサミの手を持つという「異形の者」であるエドワードにとどまる問題ではない)。

この映画はとても分かりやすい。そして分かりやすいが故に残酷で哀しい。

2004年03月29日

「リンク切れ」について

テキストサイトには文中で参照リンクが張られていることが多い。特に「ニュースサイト」の形式をとっているところでは、周知のように、リンクが中核的な意味合いを持っている。問題は一度張った文中リンクが、「リンク切れ」となってしまった場合、サイト運営者はどう考えるべきか、ということだ。

「リンク切れ」が読み手にとっては少なくとも好ましいことではない、ということは確かなように思われる。じゃあサイト管理者にとって「リンク切れの点検・修正」は、読者への「サービス」なのか、それとも「一応はわきまえておくべきマナー」なのか。Alertbox「リンク切れとの戦い」を読むと「いかなるURLも殺してはならない」という強烈な主張がなされているが、その根拠は「ユーザーの信頼を得る」ためだという。要するに人気サイトにしたければリンク切れは減らした方がいいよ、という話なので、まあこれはそれを「サービス」と捉えているということになる。

他方「リンク」と「論文における文献の引用」を類比的に考えれば、内田樹先生のこういう考え方が参考になるかもしれない(2003年2月11日の日記参照)。内田先生の考え方に沿えば、テキストサイトで公開される文章は、誰かへの「贈り物」なのだからそれらしく体裁を整えるべきだ、という意味で、「リンクの修正」は「マナー」だ、という結論になりそうだ。

僕は、というと、実はある程度の日数が経った後、過去に書いた記事の中で張ったリンクを一つ一つ点検している。リンク先のサイトがサーバーの移動などでURLを変更していた場合は張りなおすし、リンク先のページがそもそも消えてなくなっていた場合には「Internet Archive」やGoogleでキャッシュを探してそこにリンクを張る(それでもダメだったら諦めるけど)。

ちなみにリンク先を考えるに当たっても、例えば「ポータルサイトのニュース」は予めリンク対象からはずすようにしている。「Yahoo!ニュース」なんかはまさにそうなんだけど、とにかく更新される量が多いために、過去記事がすぐに消されてしまい、リンク切れを起こしやすいからだ。それから「2ちゃんねる」のスレッドにリンクを張るのも、同じ理由で避けている。

で、僕が「リンク」に気を配る理由なんだけど、どっちかっていうと内田先生の考え方に近いから、って感じかな。つまり「リンク修正」はマナーだということ。でも考えてみれば、どちらの立場に立とうが「リンク切れは減らした方がいい」という結論は一致してるわけで、じゃあ、どっちでも良いんじゃねえのということになりそうだ。うん、まあその通り。

それから、一つの記事にいくつものリンクを張る「ニュースサイト」をやっているところなんかは、過去ログを遡ってのリンクの点検など物理的に不可能だろう。だとすると、いくら「マナー」として分かってても「サービス」したくてもそもそも出来ないんだからこれもまた、どちらの立場に立とうがあんまり関係ないんじゃねえの、という話になりそうだ。うん、まあその通り。

…要するに最近イラク関連の話題が多かったので、あまり意味のない話をしてみたくなっただけだったりする。

2004年03月12日

Aim "the Ace" !

遂に最終回を迎えた「エースをねらえ!」は近年稀に見る傑作ドラマでした。特に第8話(最終回の一つ前)は素晴らしかった。

MVPは松本莉緒の演じる「お蝶夫人」。それにしても出来るもんなんですねえ。彼女だけは絶対に実写不可能だと思ってたんだけど。

もちろん他の出演者、内野聖陽の「宗方仁」や酒井彩名の「緑川蘭子」とかも完全にハマッてた。いや、出演者それぞれにとっての代表作になりそうですね、これは。DVDになるそうなので、観てない方は御覧になることをお勧めします。騙されたと思って、ぜひ。

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