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Thinking Archive

2009年04月11日

「卵」と「壁」について

せっかくpavlushaさんに言及をして頂いたので前回のEntryについてもう少し続きを書いてみたい。

イラクで殺害された香田証生さんについて今一度考えてみる(僕はかつて彼についてEntryを書いたことがある)。彼は「単なる旅行者」だった(おそらく犯行グループにもそう主張したことだろう)。ところで、彼について言及した人たちはどうそれについてどう考えたのだろうか?ある人たちは「自分探しの旅にあんな危険なところに行くなんて愚かだ」と非難した。けれどもなぜそのような批判が成り立つのだろうか?

―日本はアメリカの肩を持ってイラクに軍隊を派遣している。とすればアメリカに反感をもつ人たちにとって見れば彼はイラクを攻撃する敵国の人間である。敵国の人間が無防備に戦地をうろつけば「ただの旅行者などと主張」しても通用するはずがない。本人が本気で「ただの旅行」という認識であったのならばただの愚か者である(また「ただの旅行」という言い訳が通用すると思っていたのなら極端に認識の甘い、やはりただの愚か者である)。―

彼がいくら自分の認識を正しく述べようと、彼は自分の行為がどのように解釈されるかを弁えるべきだったのであり、そこにこそ「殺されるのも自己責任」と非難される余地が生じたのだ。このように「事実」を述べたところで、本当にただの旅行をしたかったとして、その行為を実行に移せばそのまま受け取られないことがある。そしてその「受け取られないこと」について、命を賭した重大な責任を問われることがある。実際に彼を「自分探しとは!」・「自己責任だ」と批判した人たちは、彼の「その弁えなさ」について死に値すると評価したわけだ。

僕たちの身の周りには言動・行為がそのままストレートに交換されないようなある種の「場」が特定のあり方で構造化されている。前回のEntryではその「場」の存在を指摘した。そしてその場のあり方をきちんと弁えることが「人」には求められる。仮に香田さんが年端も行かない子供だったと考えてみよう。彼がその「弁えなさ」に関して「自己責任」を問われていたかどうかは疑わしい。戦地で犠牲になる子供がしばしば「何の罪もない」と形容されるのは故なきことではない。

さてここで少し話を変えて今度は宅間守(もしくはムルソー)について考えてみる。彼についてもかつてEntryを書いたことがある。彼らが激しく批判されたのはその動機が犯した殺害行為に「全く見合っていない」ということだった。普通の「人」は彼らが述べたような理由では殺人を犯さないとされている。だからこそ彼らは激しく批判されるべき「人でなし」なのである。「人」として扱われるには「なぜそのようなことをしたのか」・「なぜそのようなことを言ったのか」という問いについて「適切に」答えられなければならない(ちなみに加藤智大はその問いにある意味「適切に」答えられたようにも見える)。

「太陽がまぶしかったから」・「たんに旅行がしたかったから」という理由で行為を実行に移してしまうことは、仮にそれが真実であったとしても、いやそれだからこそ重大な責任を問われることになるのだ。「人」である僕たちには「適切な答え方」を弁えていること、かつそれを内面化することが求められているからだ。

けれどもその「適切さ」がなんであるのかを前もって知ることはもちろん常には出来ない。その「場のあり方」を常に弁えていること、内面化することが可能なわけでももちろんない。それはスタティックに構造化されているわけではないからだ。永山則夫の告白=答えに今世間から共感を呼ぶ力があるとは思えない。場は変化しながら存在する。さらにその変化は何ものかが外在的に齎すものではない。場を通してコミュニケーションに参与する「人」によって・人為的に変えられていくものだ。ちなみにその変化に取り残されることは常にありうる。僕たちは自身の行為や言動の波及効果が、如何なるものであるかを常に完全に予想することは出来ない。

予想も出来ない波及効果に直面した時僕たちは「そんなつもりで言った(やった)のではない」と主張するかもしれない。その時僕たちは自分がどうしようもなく「個」であり「卵」であることを自覚するだろう。とは言え「壁」は「卵」が作り上げたものでもある。その意味で

「卵」と「壁」は、決して別々のものではない。しばしば同一人物が両方になり得る。今の私自身も、やはり両方の契機を兼ね備えているはずだ。

に僕は完全に同意する。

いずれにせよ。そのありようを批判するにせよ、肯定するにせよ、内面化するにせよ、ある種の「場」・「ザ・システム」・「壁」はきちんと存在している。そしてシステムは変えられるけれどもシステムそのものを廃棄できるわけではないのだ。

2009年03月01日

デマを指摘することの意味

ここに一組の夫婦がいる。彼らは浮気をしてもいいということを暗黙の内に認め合っている。もしいきなり夫が、進行中の浮気について赤裸々に告白したら、当然ながら妻はパニックに陥るだろう。「もしただの浮気だったら、どうしてわざわざ私に話すの?ただの浮気じゃないんでしょ?」何かについて公に報告するという行為は、中立的ではありえない。(…中略…)秘密の情事についてたんに何も話さないことと、それについて何も話さないと公言することとの間には大きな違いがある(「いいかい、ぼくには人間関係すべてを洗いざらい君に話さない権利がある。ぼくの人生には、きみにはまったく関係のない部分があるんだから」)。後者の場合、暗黙の約束が明るみに出たとき、かならずやこの宣言そのものが更なる攻撃的なメッセージを発することになる。
学問の世界で、同僚の話がつまらなかったり退屈だったりしたときの、礼儀正しい反応の仕方は「面白かった」と言うことである。だからもし私が同僚に向かって正直に「退屈でつまらなかった」と言ったとしたら、当然ながら彼は驚いて言うだろう。「でも、もし退屈でつまらないと思ったのなら、面白かったといえばいいじゃないか」。不幸な同僚は正しく見抜いたのだ。-この率直な言明には何かそれ以上のものが含まれている。そこには自分の論文の質に関するコメントだけでなく、自分の人格そのものに対する攻撃が含まれているにちがいない、と。

同様に「デマであると認識していること」と「デマであると公言すること」はまったく異なっている。上記のS.ジジェクに倣って考えてみよう。

ラカンはこう読め!
交際している女性がデートの待ち合わせの時間であるはずの午前9時に5分遅れてきた時、彼女がその言い訳として「ごめんなさい。低血圧で朝が弱くて起きられなかったの」と言ったとしよう。その時あなたが「低血圧が原因で朝起きられない、というのは医学的にみて何の根拠もない(=デマである)」と返答したとすれば、彼女は「つまりは彼は『私を許さない』というメッセージを発しているのだ」と考えることだろう。

合コンの席で血液型による性格診断で他の出席者が盛り上がっている最中、話が自分に振られたとき、「血液型による性格診断は何の科学的根拠もない(=デマである)」と述べたとしたら、「つまるところこの人はこの席が取るに足らないくだらないものであると主張している」と受け取られることだろう。

繰り返すが、「科学的に間違っている」と認識していることと、それを公言することの間には大きな違いがあり、それは「デマをデマと指摘しただけ」などといった「中立的な行為」ではありえない。そして僕たちはそのことを「通常よく弁えている」のである(たった5分の遅れを低血圧のせいにする彼女や合コンで血液型の話で盛り上がる人たちに、あくまで「それはデマである」と主張すればどのような結果を齎すか、僕たちは「通常よく分かっている」)。

先だって「ある評論家が歴史修正主義に実質的に加担した」と批判された論争において、彼を擁護しようとした側のある人間が「東京大空襲はおろか昨日の事さえもあったかどうかは定かですらないはずだ(確かな根拠はないはずだ)」→従って「南京事件はあったと断言することは自分には出来ない」旨を主張した。

なるほど彼自身「十分前世界創造論者」もしくは「懐疑主義者」であるというわけだ。が、彼がすべての事実命題について「かどうかはわからない」などとコミットし続けているということがありえない以上、本当の問題は、「何故その文脈であなたは自身が懐疑主義者であることを強調するのか」ということなのである。そして「南京事件に関して、自分は懐疑主義者であるので、あったかなかったかについてはわからないと言わざるをえない」と述べることが、通常どのような(政治的)効果を齎すか、やはり僕たちは「通常よく分かっているはず」なのである。

僕が「南京事件は存在した(南京事件否定論はデマである)」、「従軍慰安婦問題について日本は責任がある(従軍慰安婦否定論はデマである)」と公言するとすれば、改正国籍法批判論は悪質なデマであると公言するとすれば、或いは光市母子殺害事件の被告人の弁護団は懲戒請求に値するという批判はデマであると公言するとすれば(そのいくつかについてはこれまで実際にしているわけだが)それはたんに「デマだから」ではありえない。そのコミットメントは、「私はそれを有害だと見做す」という、「より攻撃的」・「政治的」主張を意味するのだ。

2008年12月06日

「ゲーム」に参加しないことの意味

このEntryを御覧になる方は是非、以下もあわせて読んで頂きたい。
「被害者の人権」は普遍的か?

今朝のみのもんたの番組での下村健一のレポートのテーマは「被害者参加制度」だった。市井の人間が参加することになる裁判員制度が始まろうとする中で、さらに被害者遺族が当事者として加わるということの意味について問題提起するものだった。果たしてそこには某市で起きた母子殺害事件で有名になった被害者遺族のコメントが寄せられていた。その彼いわく「被害者が裁判に参加するのは当然」・「そもそも被害者を理解せずに刑を科すことなど出来る訳がない」。

彼は「裁判への被害者参加」が被害者にとって待ち望まれたものであって、被害者の癒しに繋がるものであることを露ほども疑っていないように見える。だが本当にそうだろうか?というわけでここでは、彼の理想とするような司法制度がどのような帰結を齎しうるのかを考えてみたい(従って実際の「参加制度」がどうであるかも敢えて括弧に入れておくことにする)。先に結論から言っておく。僕は彼の理想とする制度は被害者にとって苛酷なものになることが十分にありうると考えている。

彼の前提はおそらくこうだ。「被害者遺族の訴えを聞けば、被害者感情に誰もが共感しそれ考慮に入れた量刑(おそらく重く)になるだろう(現に自分がそうであったように)」。けれどもそれは間違っている。「世間」は彼が考えているほどたやすく「被害者」に寄り添ってはくれない。上記リンク先のEntryから一部を再掲しよう。

この社会には母が死んだ時、自分の家族が犯罪事件に巻き込まれた時、振舞うべきフォーマットが存在し、その通りに「お芝居」をしない人間は激しい憎悪の対象になる。僕にはいつまで本村氏がこの国の人々から同情心・共感を調達し続けられるような「被害者」を演じ続けられるのか、分からない。ちなみに僕は彼がこれまでそれに「成功」してきたのは、今回の事件の加害者のキャラクターによる部分も大きいと思っている。もし加害者が傍から見て反省の気持ちが現れているような手紙だけを綴り、法廷でひたすら謝罪の言葉を述べてさえいれば、本村氏は果たして「現代のヒーロー」となりえただろうか?「被害者の人権」を主張しうるか否かは、加害者がどのように振舞うかにも依存しているように思われる。

このように本村氏のように、その家庭が如何に理想形であり、非の打ち所のない社会人・家庭人であったとしても、被害者が共感を呼び続けられる保証はない。そしてまたそれらは「最低条件」であって、その条件を満たせないものはそもそもこの苛酷な「ゲーム」に参加することすら出来ないのである。

大野病院事件での遺族の父の会見はほとんど支持されなかったしまた一部ではその激しい被害者意識に対して冷たい視線さえ投げかけられた。逆に「誰も責めない」と会見し「墨東病院の医師に感謝する」と述べた夫は礼賛された。被害者遺族が世間の共感を呼び寄せることが出来るかは彼らがいかに空気を読み、そして出過ぎた真似をしないように振舞うかだけでなく、被告人がどのようなキャラクターとされるか(大野病院事件で訴えられた医師は何度も謝罪していると報道されていた)にも依存する。

「遺族が裁判で思いのたけをぶちまければ世間代表である裁判員の共感を呼ぶことが出来る」とでも安易に彼が考えているとすればそれは大きな間違いである。寧ろ共感を呼ぶ為にこそ裁判で遺族は計算しつくしたパフォーマンスをしなければならないわけだ(繰り返すがそれだけでも十分ではない)。仮に失敗したとしよう。その結果は目も当てられない。世間・人民の支持を得られなかった裁判では量刑が軽くなることさえありうるかもしれない。量刑に関して「共感を反映させよ」とはそういうことなのではないだろうか?

「共感争奪戦」のプレイヤーとしてエントリーした被害者遺族に悲しんでいる暇などない。「敵」に重い刑を科す=勝利の為に常に戦わなくてはならない。自分の失点は敵の得点、敵の得点は自分の失点、検察官と共により多く得点をし勝利するべく有能なエージェント足ることを強いられる。これはある意味で非常に苛酷であると言える。

仮に被害者遺族が傍から見てどんなに不愉快な人間だったとしても=エージェントとして無能だったとしても「人を殺したこと」について粛々と正義が公平に貫かれることの方が良いという正義観は十分に成り立つ。というより、世間は被害者に冷たいこと、完全無欠の被害者が存在しないこと、普通の被害者遺族は某氏のような超人的タフネスさも持ち合わせてはいないこと、かつパフォーマンス能力にも優れてもいないこと、運も強くないことを真面目に考慮するならばどちらが良いかは…まあその判断についてはそれぞれにお任せしよう。

いずれにしても「参加は当然」でもなんでもない。被害者遺族には世間・人民の審判などに曝されない権利がある。検察側にも弁護側にもつかずに第三の立場であり続ける権利がある。僕はそれに確かな意味を認める。「ゲーム」にあえて巻き込まれないことには意味があるのだ。

2008年10月21日

「イモ」こそが擁護されるべき。

でも、イモも大事だよ。イモこそが、ここで擁護される権利そのもの

日本国憲法が体現するリベラルデモクラシーとはまず第一に「個人が尊重される」ことを基底とする。ところで尊重されるべき個人とはなんだろうか?言い換えれば「どういう個人」を尊重すべきなのだろうか?ざっくりと答えを言ってしまえば「そのような内実規定はない」ということになるだろう。

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2008年04月26日

「自分にとっての真実」について

某高裁での某事件に対する判決に関して、現時点で僕が得られた情報の範囲内での感想。

判決直後に接見した弁護士の「会見で伝えたいことはあるか」との問に被告人は「自分にとっての真実を述べた」と答えたという。

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2008年03月29日

「民間であれば破綻」?

大阪府を始めとして、財政赤字に苦しむ地方自治体について「民間であれば破綻している」と言われることが多い。「一私企業ならばとっくに倒産しているはずのところを、行政機関ということで存続を許されている」、「公務員・公的行政機関はある種の特権を持っている」というわけだ。

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2008年01月29日

上品な趣味について

僕は福士加代子は非難しないが、あれを「感動した」とか言っている人を見るとうんざりする。

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2007年12月30日

「本当に困っている人」とは誰か

少し前の話題の蒸し返しで申し訳ないのだけれども。

インターネット上で「死ぬ死ぬ詐欺」と呼ばれ、問題視された事例があった。重い心臓病で移植手術しか助かる見込みのない少女の親御さんたちやその友人らがその費用をまかなう為の寄附を募ったことに対して、彼らの公表する会計データに一部不透明なところがあるとして、それを「会計責任を果たしていない」、「詐欺同然」と糾弾する人たちが現れたのだ。

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2007年12月17日

「一意的な解」を僭称する人々

前回のEntryの補足。

それほど注意深く読んでもらわなくても分かると思うのだけれども、別に僕はジェイコブスの「2つのカテゴリー論」を前提にしていない。僕は単に「普遍的な倫理」、もっと分かりやすく言えば、「あらゆる局面において適用しうるモラル」など「存在しない」ということを前提にしているだけなのだ。

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2007年12月06日

自衛隊で学べること・学べないこと

東国原宮崎県知事が「若者に倫理を教え込む為に自衛隊に送り込め」と発言した件については、これまで多くのそして様々な観点から、「的確な」批判が為されてきたわけだが、遅ればせながら僕なりの意見を述べてみることにしたい。

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2007年09月04日

「忘れる」についての覚書

「忘れる」には2つの様態が存在する。

(A)対象についての確定記述の一部(或いはほぼ全部)を忘れるというもの。(B)何を忘れたのかすら忘れてしまっているという絶対的な忘却である。

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2007年07月15日

「忘れる」という権利

前回のEntryでは、被害者が非の打ち所のない・何も責めを負うべきところのない人間であったとしても、彼らが共感・同情心を世間から調達し続けられる保証はない、従って「被害者の人権の保障」を巡る「ゲーム」は被害者にとって苛酷である、という主張をした。

今回はもう少し踏み込んでみる。

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2007年07月11日

「被害者の人権」は普遍的か?

仮に妻子を惨殺された夫が、葬式で涙の一つも見せず、その翌日に女と遊びに行ってしまうような男だったとしよう。さらにもう一つ、彼の殺された妻もしばしば育児をほったらかしにしながら男と浮気をし、家庭内不和が表面化していたと仮定を置いてみよう。つまり彼らの家庭は世間的に見て眉をひそめられるようなものだったのである。

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2007年06月10日

自爆と倫理性

遅ればせながら「今の若者が不幸せな原因は、平和の毒にある」より石原慎太郎の発言を読む。これは色々と興味深い。

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2007年02月28日

「我々」と「彼ら」のポリティクス

香山さんは指摘する。「安倍さんは著書『美しい国へ』のなかで、『わたしたち』と『かれら』という言葉を多用している。『わたしたち』は家族を愛し、国を愛し、公共心があり、にこやかで美しい。『かれら』は利己的で姑息(こそく)で悪意に満ちたイメージです。ものすごく違うのに、『わたしたち』や『かれら』のはっきりした定義は書かれていない。2者の線引きはあいまいで情緒的です。まるで漫画のような2項対立でしか世界をとらえていない」(2006.9.13 毎日新聞

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2007年02月27日

一つのアンチノミー

安倍は憲法改正の動機の説明においてよく「日本人の手による憲法」という言葉を使う。この主張に色々と含まれている「議論としての甘さ」についてはとりあえず今は置く。しかし「日本人が自ら憲法を書く=作ることが重要だ」と言っておきながら、例えば国民投票法案では最低投票率規定も設けず、「とにもかくにも成立させればこっちのものだ」的なやり方を図るのはなぜなのか。「日本人が自ら作ったと思える憲法を」とは、「なるべく多くのコミットメントこそ憲法の重要な構成要素」であるということではないのだろうか。

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2007年01月31日

NHKは死に続けている

NHKの番組への政治家の介入問題について僕が書いたEntry。

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2007年01月29日

「万が一」というレトリック

「国家は国民の生命財産を守るために万が一の事態にも備えておかなければならない」

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2007年01月19日

レトリックと自己欺瞞

(1)かつて内田先生は「自虐史観批判派」についてこのように評した

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2006年11月29日

「Straitjacket」と「遣共使」

メモ。

教育基本法特別委員会質疑応答と弥次」より。

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2006年11月16日

法のレジティマシー?

教育基本法改正案が衆院の特別委員会で強行採決されたようだ。一言で言えば非常に残念。

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2006年11月13日

「与党ボケ」ここに極まれり

教育基本法の改正案における「不当な支配」を巡る議論について。

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2006年10月28日

「畏れ」と「英雄」

映画「ワールド・トレード・センター」の宣伝を見て思うのだけれども「セプテンバー・イレブン」を語るのになぜアメリカ人はいつも「消防士」の物語を持ってくるんだろうか。

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2006年10月13日

「みんなの責任」という無責任

前回の補足。

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2006年06月29日

おまえに何が分かるというのか?

Blog「どん底あるいは青い鳥。」の「光市母子殺害事件雑感」より。

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2006年03月14日

「梯子」は何処へ消えた?

前回山形さんの発言を「かっこいい」と評したことについての補足とswanさんへのリプライを兼ねて

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2006年01月17日

職業倫理は普遍的か

町山智浩さんのこのEntryを「ホテル・ルワンダ」を観にいく前に読んでしまいました。僕は映画は、極力事前に情報を頭に入れずに観たいというタイプなのですが、こういう切れ味のある批評を読んでしまって正直「しまったなあ」という感じです。まあそれはともかく、このEntryに対して、Mr_Rancelotさんが鋭いツッコミを入れていたのをさらに読んでの感想をば(そんなことしてる暇があったらさっさと実際に観てこい!というツッコミはご勘弁を)。

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2005年12月08日

「かけがえのなさ」への距離

女系天皇をめぐる議論をみていて思ったこと。

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2005年11月18日

「伝統」の効用

裸の個人のまとう衣」の続き(本当は続けて書くつもりだったのだけれど、何だかんだで間が開いてしまった)。先日「クッキーと紅茶と」にコメントさせて頂いたんだけど、そのことと絡めて、当Blogにたびたび登場する哲学者永井均氏の、「キリスト教と原罪」についての議論を援用しながら(パクリながら)、少し考えてみたい。

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2005年09月24日

「ムダ」という概念について

気になっていることがある。

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2005年09月10日

「裸の個人」のまとう衣

「裸の個人」、いかなる規範、文化からも自律した個人など存在しない。個人とは常に、共同体内的存在であり、帰属する共同体の文化、規範、認識の枠組みといったものに侵食されている存在である。このような「共同体なくして個人なし(「裸の個人」は存在しない)」という類のテーゼを「共同体主義テーゼ」と仮に呼んでおく。

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2005年08月13日

「代表」について

前回のEntryでは「郵政民営化問題以外は白紙委任で」とでも言いたげな解散権者とその取り巻きたちを批判したわけだけれども、ここで少し立ち止まって考えたい。

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2005年08月11日

「シングルイシュー」の欺瞞

最近とても忙しいので、まとまった文章を書く暇も、まとまったことを考える暇もほとんどない。ただでさえ更新頻度が低いのだけれども、今後さらに一層更新ペースが落ちる可能性がある事については、どうかご了承いただきたい(というか、実際Blogを止めようかとも考えた)。

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2005年06月14日

「強者」の責任

尼崎の列車脱線事故で、被害があったマンションの住人たちとJR西日本の間で損害の補償の交渉がもめているようだ。

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2005年03月31日

「愛国心」の文法

突然なのだけれども「愛国心」について、永井均「<私>のメタフィジックス」所収「感覚の文法」を横目で眺めながら議論してみたい。

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2005年03月17日

不安の共同体

rir6さんが人権擁護法案反対派サイトへのカウンターとしてのまとめサイトを作っておられるので、早速クリップ。「言論の自由をいかに考えるべきか」という基本的前提から、法案についての現実的、実践的な話まで分かりやすく整理がなされており、非常に良質のサイトだと思う。

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2005年03月09日

自生的秩序をどう考えるか

前回のEntry「Hate speechは存在するか」にNakada HiroshiさんのBlog「se acabo」から「なぜ自分の首を絞めるのか」というTBを頂いた。非常に真正面からの反論なのでこれは何かお答えしなければ、と思っていたところ、rir6さんに「自分の首を絞める理由」として先にEntryを書かれてしまった。しかもこれが興味深い整理になっていて、色々考えている内に、さらにまた「se acabo」からの再応答がrir6さんにされたりして、要するに完全に出遅れてしまった。

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2005年03月05日

Hate speech は存在するか

「人権擁護法案」というものが2ちゃんねるで話題になっているようだ(ここがまとめサイトらしい)。

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2005年02月22日

理想から虚構へ

「現実/理想」論の続き。今回はこの枠組みの歴史的変遷を概観する為に社会学者見田宗介、大澤真幸両氏の力を借りることにする。

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2005年02月18日

現実主義と理想主義

現実主義と理想主義の間に明確なギャップなどあるのだろうか。

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2005年02月11日

天皇制のあり方

以前から僕のBlogを読んでもらってる人なら、別に僕が普段から天皇制に積極的にコミットしているような人間ではないということは何となく分かってもらえていると思う(僕は靖国神社の成り立ちとか歴史にも全く興味が無い人間です)。とは言え、分かっておられない方のために、念の為言っておきますが前回、前々回のEntryは「自称保守」を名乗る人たちへの単なる「嫌み」です。

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2005年02月09日

昭和天皇は何を詠ったか?

この年の この日にもまた 靖国の みやしろのことに うれひはふかし

やすらけき 世を祈りしも いまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど

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2005年01月31日

「不敬」であるのは誰か?

昭和天皇が靖国への参拝をしなくなった理由を知っているだろうか。ちなみに僕が知っていたのは、A級戦犯が合祀された事がきっかけだということだけだ。

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2005年01月21日

「息をつく空間」

That erroneous statement is inevitable in free debate, and that it must be protected if the freedoms of expression are to have the "breathing space" that they need to survive.

(自由な議論においては、間違った主張は避けられないものである。そして、表現に関連する様々な自由が、それが生き延びる為に「息をつく空間」を持つものであるとするならば、間違った主張であっても保護されなければならない。)

アメリカにおける表現・報道の自由の憲法的保護の重要性を高らかに謳ったサリヴァン判決の中の一文だ。

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2005年01月17日

(続)NHKは死んだ

NHK教育テレビの特別番組に安倍晋三・中川昭一両議員が圧力をかけたのでは、と朝日新聞が報じた問題について、僕ははっきりとこの両議員の方に疑惑を持っている。
まず安倍晋三氏の発言の流れを時系列で追ってみよう。

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2005年01月13日

NHKは死んだ

「ジャーナリズムは死んだ。ジャーナリズムは死んだままだ。それも安倍・中川とNHKがジャーナリズムを殺したのだ。」

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2005年01月09日

健全な売り手/賢い買い手

東浩紀×矢野直明対談から抜粋

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2005年01月04日

性犯罪者の再犯率?

なんばさんのBlog「児童小銃」から奈良幼児殺害事件関連のEntry「macska dot org」のEntryを読ませて頂き、勉強になることしきり。で、僕もなんばさんのところにコメントさせていただいたりしてるわけだけど、それにしてもマスコミの出す数字はいいかげんだ。

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2004年12月31日

無責任の体系

「月刊PLAYBOY」で森達也の新連載「A3」が始まったことを知る。テーマは「麻原彰晃への新しい視点」。連載第一回目は「傍聴」。

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2004年12月18日

「国益論」の都市伝説化

突飛なことと思われるかもしれないが、「国益」という単語を好んで用いる人たちの議論のほとんどが「都市伝説」化している気がする。

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2004年11月19日

判例が矛盾?

公明党肝入りの外国人地方参政権付与法案が審議入りしたようだ。で、先日読売新聞がそれを批判する社説を掲載した(資料)。もちろん批判自体はどんどんしてもらって構わない。ただし建設的なものならば、だけど。

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2004年10月14日

ドーピング

とりあえず2006年サッカードイツワールドカップアジア最終予選進出決定を果たした日本代表におめでとうと言っておく。全体的にはつまらないサッカーだったけど、とにかく結果が欲しい試合だったから仕方がない。それでも鈴木の体を張ったファイトや鬼神のごとくクロスボールを跳ね返し続けた中澤にはやっぱり感銘を受けた。

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2004年09月28日

労働・モラリズム・分割統治

sarutoraさんのEntryとComment欄
flapjackさんのEntry
tokyocatさんのEntry
をとても興味深く読みました。

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2004年09月24日

イチローは過去に光を当てる

いまさらながらイチローは稀有な選手だと思う。

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2004年09月16日

「宅間守」という人生の発明

ある行為に対する「情状酌量」は何故為されるのか。それはその行為の理由が合理的な文脈、理解可能な文脈に位置づけ直されるからだ(そのような理由からそのような行為に到るのは、理解出来る、という場合にそれは為される)。

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2004年08月04日

スポーツは純粋であるべき?

前回のEntryの補足。

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2004年07月23日

超越論的「お約束」

「山形浩生勝手に広報部:部室」での「人権」と「民主主義」に関する議論(こことかここあたり)を見て考えたこと。

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2004年07月16日

枠組みに縛られることなく

イラク問題、あるいはそれ以外の日本の外交問題を語る場合でさえ「親米か/反米か」という切り口、議論の枠組みがデフォルトになりつつあるように見える。

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2004年06月29日

憲法と「押し付け」

宮台さんが日本の憲法は欽定憲法だ、という見解を示しているんだけど、これは正しくないと思われる。僕はもちろん憲法の専門家ではない。が、憲法に関連する本を読むと、現行憲法は形式的には明治憲法の改正、という形を取ったのだけれども、両者間には内容的に考えて埋めがたい断絶がある、という「八月革命説」というのが憲法学では一般に受け入れられている説であるらしい。というわけで以下長谷部恭男「憲法」を下敷きに説明をば。

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2004年05月21日

パブリックとプライベート

今月のサイゾーの「M2」対談は「自己責任論」がテーマ。

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2004年05月03日

Quality Paper ?

読売新聞による「憲法改正2004年試案

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2004年04月05日

「分からなさ」を認めること

日の丸・君が代問題について石原慎太郎は「なぜ忌避か分からない」という、近代国家の政治家として極めてレベルの低い言葉を吐いた。

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2004年04月01日

完全な倒錯

昨日僕が書いたEntryについては、出来が悪いことこの上なかったので消しました。僕なんかよりもはるかに明晰な正論を展開されている内田先生のEntryを読まれた方が断然良いと思いますので、代わりにリンクしておきます。

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2004年03月09日

「誠意って何かね?」

何ともやりきれない思いがする。僕は中小企業を営む父を持つ。父は常に日々の資金繰りに頭を悩ましている。僕もその父を間近で見てきてその苦労を痛いほど良く知っている。だから浅田農産の会長の過ちを一方的に非難する気持ちになれない。

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2004年02月21日

夢から夢へと覚める

「運動論」リンクを読みながら考えたことなどを少し。

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2004年02月17日

ジャンクな世界

僕は基本的に肉をあまり食べない人間なので、狂牛病騒動についてはどこか他人事のような感じがしている。牛丼もごくたまに食べるくらい。というわけで今回のことで一番最初に僕の頭にぼんやりと浮かんだのは、皆が話題にする吉野家とかではなく、寧ろ仙台名物「牛タン」はどうなるのか、みたいなことだった。

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2004年02月11日

ネタとベタ

「ネタ」と「ベタ」というタームを最初に使い始めたのは宮台さんだったように思う。で、つい先日に出た北田暁大さんの「2ちゃんねる論文」の影響もあって、それは社会学的分析が好きな人たちにとっては必須のキーワードとなりつつある。ちなみにこれの一般的な用法は「××が~と主張するのは、あえて(ネタで)言っているのであって、真の意図は―なのだ。~を額面通り(ベタに)受け取るべきではない」みたいな感じ(だと思う)。

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2004年02月04日

東・宮台論争と株式会社モデル

東さんのblog宮台さんのblogについて「株式会社」をモデルに考えてみた。

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