2008年07月18日

涼宮ハルヒの憂鬱

Others

涼宮ハルヒの憂鬱「文化庁のメディア芸術100選」のアニメーション部門・自由記入欄得票数第1位に選ばれたという同作品。話題にしている人も多い作品なので観てみた。

ライトノベルの谷川流原作「涼宮ハルヒシリーズ」のアニメ化なので、あらすじを知りたい人はwikipediaの「涼宮ハルヒシリーズ」を見てもらえばいいと思う。さて僕がこの作品を見て想起したのは「マンガ・嫌韓流」に関して東浩紀が語ったことだった。

手元に「論座」が見つからなかったのでとりあえずネット上から該当部分を拾って抜粋してみる。

…『マンガ嫌韓流』を一読して印象に残ったのは、表面の熱気とは裏腹の、冷笑的な空気である。…公平を期すために言えば、そこには説得力のある議論もある。しかし、それらの議論は、日韓関係の改善に繋がる積極的な提案に結びつくわけではない。結局残るのは、「歴史問題にしても竹島にしても、韓国人はどうしてこう話がわからないんだ、まあバカだからしょうがねえか」という諦め、というより冷笑だけである…
嫌韓のここに本質が現れている。かつて社会学者の北田暁大は、ネットを舞台とした擬似ナショナリズムの本質は、他人の価値観を「嗤」い、そのことで自らの優位性を保とうとするロマンティシズムにあると分析した。『マンガ嫌韓流』も同じである。
おそらく嫌韓の担い手の多くは、とりわけ嫌韓厨は、日本の将来を具体的に憂いているわけではない。彼らはむしろ、韓国人の愚かさを証明し、日本人の優位を確認したいだけなのである。『マンガ嫌韓流』がディベートの場面を数多く挿入しているのは、そのためだ。しかもその作法は、ネットでの「ツッコミ」に近い。だから彼らは、韓国人の歴史認識や外交姿勢を批判するだけではなく、その奇異な発言や行動を収集し、「あいつらはこんなにバカだ、困ったもんだ」と「ネタ」にする。…それを駆動しているのは、嫌韓厨自身の自己満足である。その背後には、韓国への歪んだコンプレックスすら透けて見える。

物語は「一般人・普通の人」=「キョン」の視点で語られ進行する(「自称中立」!)。主人公である「涼宮ハルヒ」は極度にエキセントリックな性格として描かれており、その言動・行動はあからさまに「ツッコミのネタ」の宝庫である。そしてキョンはハルヒに対する冷笑的な視線と共に、彼女に律儀にツッコミを入れながら話は進んでいく。

もちろんだからといってキョンはハルヒを「毛嫌いしている」わけではない。寧ろキョンはハルヒが気になって仕方がない。ツッコミを入れざるをえない。ツッコミの欲望を彼は統御できない。ツッコミのポジションへの果てしない欲望の表象がキョンという存在なのである。あくまで自らがツッコミのポジションでありたいという自意識に絡め取られたロマンティストたちは喜んでキョンに同化し、「あえてネタと戯れてあげる」ということに無上の自尊心の満足感を得ることだろう。

個人的な感想として僕はこの作品は全体的に気持ちが悪かった。ちなみに「みくる(大)」にはとても萌えた。

2008年04月26日

「自分にとっての真実」について

Thinking

某高裁での某事件に対する判決に関して、現時点で僕が得られた情報の範囲内での感想。

判決直後に接見した弁護士の「会見で伝えたいことはあるか」との問に被告人は「自分にとっての真実を述べた」と答えたという。

「真実」ではなく「自分にとっての真実」という謙抑的な言葉を彼が選んだという点にあえて注目してみたい(それは「真実を語れ」と彼に迫った側の方が、ややもすればその謙抑性を無自覚に踏み超えていたのとは対照的であった)。そもそも「真実」など本当は誰にも、本人にすらも分からないのではないだろうか。仮に今過去へ戻ることの出来る装置・或いは過去に生じた出来事を忠実に再現する装置が発明されたとしよう。しかしあらゆる出来事には複数の記述が存在する(哲学的にはかなり荒っぽい言い方であることはお断りしておく)。

ex.)以下の記述は全て同一の出来事を指示し得る
「スミスはスケートボードに乗っていた」
「スミスは遊んでいた」
「青白い顔をしたブロンドの男は急いで逃げた」

過去の出来事なるものが忠実に再現されたところで、それを解釈するに当たって複数の記述のうちどれが妥当であるのかを予め決定するようなアルゴリズムは存在しない。とすれば原理的には客観的な「真実」は存在せず、存在するのは「各人にとっての真実」だけだとも言いうる。そして実際僕達はおそらくほとんどの場合について「自分にとっての真実のみ」で生きているのである。

もちろん例外的なケース、すなわちある出来事に対して相容れない二つの解釈がぶつかり、そのどちらかを暫定的に決定しなければならない、そういう場面は存在する。その場の一つが「裁判」ということだろう。裁判とは対立する二つの解釈のどちらが裁判官(=社会・共同体の表象)の信を得るかを競い合うものである。一方の解釈が裁判官の信を得られなかったとしても、「自分にとっての真実」までが否定されるわけではない。「社会的には…と見做される」というだけの話である。

被告人が自らの命と「自分にとっての真実」を天秤にかけ後者を選んだことについて、僕からは何も言うべきことはない。ちなみにおそらくかの被害者遺族においてはその倫理的な価値について「積極的に」認めざるを得ないだろうと思う。彼は反省し(=事件を振り返り)その上で嘘をつくことを拒否したのだから。

彼は悔い改めて自ら犯した罪を反省して納得して、胸を張って死刑を受け入れることに私は意味があると思っています。もし彼が嘘をついてこの法廷を戦って、負けて死刑が出たときに、彼の人生は何だったのかと思います。(07.6.28
激しく対立していたはずの二人が図らずも「人間にはただ生きるよりも大切な価値があり、それは嘘をつかないということだ」という同じ地点・認識に到達していたことが僕には非常に印象的だった。

(関連Entry)

「宅間守」という人生の発明
おまえに何が分かるというのか?
「被害者の人権」は普遍的か?
「忘れる」という権利

2008年04月01日

シニシズムの放棄について

Notes

mojimojiさんの一連のEntry周辺の議論。

排外主義者、あるいは日曜サヨク
排外主義者、あるいは日曜サヨク、その2
排外主義者、あるいは日曜サヨク、その3
排外主義者、あるいは日曜サヨク、その4

論点は2つ。
・ネット右翼がなぜ中国のチベット支配を批判できるのか?
・中国のチベットへの抑圧を批判する為に左翼・人権派とネット右翼・保守派は共闘すべきか?

前者について。左翼・人権派がチベット問題を「ネット右翼が満足するようなかたちでは」取り上げていないこととチベット問題に類する人権問題に関してネット右翼がどのような態度を取ってきたかということは同列に並べられるべきではない。

仮に左翼や人権派のチベット問題への関心が相対的に低かったとしよう。しかし人間が有限的存在であって、あらゆる問題へコミットすることはできない以上、それは矛盾とまでは言えない。もしチベット問題について左翼・人権派がどのような立場をとるのかを知りたいなら、mojimojiさんが言われるように単に尋ねてみればいいのである。ちなみにほとんどの場合「中国政府を支持しない」という答えが返ってくるだろうけれども。

しかしネット右翼は事情が異なる。これまで彼らは人権問題を取り上げてこなかったのではなく、人権問題への取り組みを「冷笑」してきたのである。戦争責任・人権問題に取り組む人間を「プロ市民」と嘲り、偽善者扱いをしてきたわけである。その彼らがなぜ「チベット問題はコミットするべき」だと主張するのだろうか?チベット問題は人権問題ではないのだろうか?例えばこれまでもチベット問題を人権問題として取り上げてきた人間は存在するわけだけれども、彼らは「プロ市民」・「偽善者」ではないのだろうか?

さらに言えばネット右翼の多くは例えば「嫌韓流」といった本の記述を肯定的に捉えて「日本は韓国・台湾に良いこと=近代化をしてあげた」とか「日本の植民地支配は日本側の持ち出しであった」などと主張し、日本が植民地を抑圧したことを否定する。ではチベットに関してはなぜ「中国政府はチベットに良いこともしてあげているから抑圧しているとは言えない」と主張しないのだろうか?中国はまさに「持ち出し」でチベットの「近代化」を図ってきたのだから。一体どのような論理でネット右翼は中国を批判しうるのだろうか?

僕は無い知恵を一生懸命に絞って考えたのだけれども、これまでのネット右翼の主張と今回のチベット問題へのコミットメントを「整合的」に理解する論理を考え出すことは出来なかった。左翼・人権派は百歩譲ったとしても「今回は声が小さい(ようにも見える)」(それもごく普通に理解可能な)程度の話に過ぎないが、ネット右翼はそれどころではなく明らかに「理解不可能」・「矛盾」しているように見えるのだ。

その矛盾を指摘されて答えに窮した人たちが出してきたのが後者の論点、すなわち「人命が失われているのだから多少矛盾している人間がいたって受け入れるべき」という運動論の話である。ところでこの論点は「チベット問題が人権問題である」ということ「目の前の人権問題にはきちんと声を上げるべきであるということ」を前提にしなければ成立しない。それは「人権」に対する「シニシズム」、「国家によってのみ人権が守られるのだから反体制的な人権派の主張は自己矛盾(甘え)である」といった主張を放棄した上でなければ成り立たないのである。

いずれにせよネット右翼のシニシズムの論理が今回のことで「自滅した」ということについては非常に興味深いものがある。チベット問題に接してシニシズムに浸っていることに耐えられず思わずコミットしてしまった(元々徹底したシニシストではなかった)のか、それとも「シニシズムは行き着くところまでいくとある種のベタなロマン主義に転化する」という「仮説」が正しかったということなのか僕にはよく分からないけれども。

というわけで僕の後者の論点に対する答えは「共闘してもよい」。「シニシズムの論理」が自滅してこれ以降の人権問題への取り組みの風当たりが減るのって悪いことじゃないですから。

ところでiteau氏の対応も「往生際が悪い」としか言いようがないけど、それにしてもmojimojiさんて本当に容赦ないなあ。逃げ道を全部塞いで、文字通り「完膚なきまでに」という感じ。

(追記)
inumashさんのEntryへのお答え。

まず事実認識について。Entry上でも「ネット右翼が満足するようなかたちでは」とか「声が小さい(ようにも見える)」と留保しているように僕は特に今回左翼・人権派の動きが鈍かったとは思っていません。短期間にもかかわらずそれなりの人たちがそれなりの対応をしたのではないでしょうか。だいたい「左翼は声が小さい」とか言ってる「普通の庶民」なんて本当に存在するんでしょうか(少なくとも僕の周りの人にはいませんでしたけれども)。

世間一般における“注目”や“熱意”の供給量に対して「左派」の購買量があまりに少なかった、というのが根底にあるんじゃないかな。
に関しては正直言ってあまりにも茫漠としていて検証不能な話ですねえという感じです。

そもそも動きが「鈍い/速い」とか声が「大きい/小さい」というのは単に主観的判断にすぎない。もっと言うと政治性の表明なわけです。どういうことかというとinumashさんもネット右翼も、左翼に対して「かくあるべし」という政治的判断がまずあって、それが「鈍い」とか「声が小さい」とかいう判断を導いているわけです。左翼がそれに完全にシンクロしていないという批判なんですね。そしてそういった個人的な政治的判断でしかないものを唯一の根拠にしてしか成り立たない批判=「左翼沈黙論」というのが何か生産的な意味を持つのかよく分からない。

さらに言うとこの手の批判は、仮にもっと多くの団体が動いていたとしても、「まだあそこが動いていないじゃないか」とかいくらでも言えてしまう話なわけですね。特にネット右翼の人は「まだ足りない」とケチをつけ続けたのではないでしょうか。

それに比べれば「ネット右翼の矛盾」というのは客観的に明らかなわけで、彼らは「良い機会だ」と思ったのかもしれませんが、でもそれって「自滅」ですよねというのが僕のEntryの主旨です。それにしてもそもそも彼らはなんで今回の件を「良い機会だ」などと「勘違い」をしてしまったのでしょうかね。

(再追記)
さらにお答え。

それを本気で検証するんなら正式に調査した方がいい、ということには同意するけれども。
検証していない議論を唯一の頼みにした「左翼批判」に何か意味があるのでしょうか。この批判は、「世間一般」とか「注目」「熱意」「供給量」「購買量」などに全く中身が伴っていないので、「もっと何か出来たはずだ」という無内容な一般論にしかなっていない。

一般論というのはいつでもどこでも誰にでも成り立ちます(どんな運動でも行為でも完璧なものなどありえませんからどんなケースにおいても「もっと何か出来たはずだ」と主張することは出来る)。それゆえに無内容な主張なわけです。結局「機会損失が大きかった」という点を少なくとも説得的なかたちで算定しなければ今後の指針にすらなりません。

2008年03月29日

「民間であれば破綻」?

Thinking

大阪府を始めとして、財政赤字に苦しむ地方自治体について「民間であれば破綻している」と言われることが多い。「一私企業ならばとっくに倒産しているはずのところを、行政機関ということで存続を許されている」、「公務員・公的行政機関はある種の特権を持っている」というわけだ。

もちろんそれは間違っている。

行政機関というのは要するに「誰かがやらなくてはならないこと」をしている機関のことである。仮にある自治体が消滅したとしても、その仕事自体は結局「誰かがやらなくてはならない」のである。市場原理の中で存在する民間企業はそうではない。民間企業が潰れるのは畢竟「その企業が提供するサービス(仕事)が不要とされたから」である。行政機関が潰れないのは誰かが与えた既得権でも特権でもない。民間と異なり、「誰かがやらなくてはならない」仕事だからなくならないだけの話である。

例えば夕張市では行政機関の提供するサービスが縮小することによって住民の負担が増えた。それまで行政機関が担っていたものが、住民に転嫁されたからである。今まである「誰か」が担っていた、その「誰か」がいなくなれば、そこにいる住民が負担しなければならないというわけだ。

「民間ならとっくに潰れているのにある種の特権で存続している」という観点で「行政改革」を捉えてしまえば、「公務員は甘えるな(具体的には給料をカットせよとかもっとギリギリ働けとか)」という話に行き着くのはほとんど必然的ですらある(実際現在の行政改革の議論はだいたいそうなっている)。

公務員を叩くだけ叩いてカタルシスを得たいというのは自由である。その結果例えば公務員の労働待遇がワーキングプアレベルまで引き下げられたとしよう。ところでその時彼らの仕事は一体誰がやるのだろうか?彼らのしていた「誰かがやらなければならない仕事・サービス」の「質」はどのように担保するのだろうか?それらの「ツケ」は「当事者意識もまるでないまま公務員バッシングに走り、そしてカタルシスを得られてスッキリした人たち」が結局払うことになるのである。

「民間では…」というアナロジーは行政機関の持つ「誰かがやらなければならないことをする」という役割の意味を全く捉え損ねてしまう。「財政赤字」の問題にしても、行政機関の目的は「財政を黒字に持っていくこと」ではないのだから、それを加味して考えるべきだろう。*

例えば「破産者はまだ夢を語らない」と語る某知事の目指す「財政再建」が具体的にどのレベルのものなのかはっきりしないので断定的なことは言えないわけだけれども、ひたすら「民間では」と繰り返す現在彼の主張の文字面をそのまま受け取るとするならば、典型的にナイーブな考え方であるように見える。必要なのは「財政規律」の存在であって、「財政黒字」ではない。特に自治体の財政はマクロの経済状況にも大きく左右されるわけであり、それを無視した「財政再建原理主義」は、「行政機関が本質的に持つ役割」という観点から考えれば、端的に誤りであると言わざるを得ない。行政の長は民間企業の経営者ではないし、そうあるべきでもないのである。

*ちなみに民間企業は「提供するサービスが必要とされる」と「利益が出る」ことが必然的に結びついている為、その目的は「利益を出すこと=赤字を出さないこと」であると言い切って構わない。

(追記)
普段はあまりしないのですけれどもはてなブックマークへのお答え

むしろやらなくて良いことをやり過ぎているから、叩かれているのでは? 本来やらなきゃならない事だけをやっていれば、倒産状態にはならなかったはず。
(Snailさん)
本当にそうでしょうか?もしそうであるというならきちんと「財務分析」をして頂きたく思います。もちろん僕も「無駄使いの結果厳しい財政赤字に陥った」という説を頭から否定するものではありません。けれどもマクロの経済状況が悪化した場合、通常行政機関の財政赤字は拡大します。逆にそれが改善した場合税収も増えますし、雇用関連の福祉予算への支出が自然と減少したりすることもあって、財政は健全化へ向かいます。例えば大阪府の場合はどうなのでしょうか?マクロの経済状況では説明が全くつかないほどの「ムダ遣い」が今の財政状況を招いたのでしょうか?(ちなみに当Blogでは以前「ムダ」の概念についての議論もしていますので参照頂ければ幸いです)

僕が今行われている公務員バッシングに対して違和感を持つのは、それをする人たちがそういった客観的・実証的分析を全くしないまま、単に感情的にそれを行っているように見えるからです。叩くなら、「~だから叩かれるのでは?」などと口先だけで適当なことを言わずにきちんと根拠に基づいて批判をなさったらいかがでしょうか?まさか「カラーコピー」や「タバコ休憩」があったから大阪府が財政赤字に陥ったとは思わないのでしょう?

2008年03月15日

それぞれに違うけれど「一つ」

Notes

「ホワイトカラーエグゼンプション」提案時の2ちゃんねらーの反応
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/892743.html
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1029469.html

行政の長の「超過勤務」を正当化する言い草に反論する職員への2ちゃんねらーの反応
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1102983.html

いや、興味深いです。かたや、「サービス残業に対する理解がまるでない」ことに非難が集中しているのに、かたや「サービス残業するのは能率が悪いから」ですか。もちろん同じ人が言っているわけではないのでしょうけど、同じ話なのに空気が「正反対」なのはどう理解したらいいのでしょうか。単に公務員が憎たらしい=叩ければ理屈は何でもいいということなのでしょうか。

opemuさんの嘆きももっともです。「公務員も(職場が違うだけで)同じ労働者である」という感覚が掘り崩されているのかもしれませんね。けれどもこれは「公務員叩き」だけに留まる問題ではありません。例えば「正規雇用/非正規雇用」の間にも同じ問題は存在します。そうやって「敢えて分断を望む」ことで得するのは、決して「同じ労働者たる」彼ら自身ではないと思うのですけれども。

僕としては例えば「志位GJ!」の声といったものをとにもかくにも一つの流れにしていくことの方が大事なのではと思わずにはいられません。

差別される側からの謝辞や情報提供だけでなく、矛盾に直面する経営者、管理職、正社員からも好意的な反響が寄せられているという。

僕たちはもちろん「一つ」ではありません。けれども同時に「ある観点において」、「ある文脈において」ならば「一つ」になることが出来ます。

例えば「性別による差別」を考えてみましょう。男性と女性は生物学的に全く異なるカテゴリーです。けれども「同じに扱われるべき文脈で異なった扱いをされること」が社会的に否とされることでその「異なる」という「区別」は「差別」になるのです。例えば企業が労働者を雇用する際、給与体系を構築する際に「その区別を持ち込む」ことは「差別」とされます。「女性と男性は同じ労働者として扱われるべき」という社会的な合意が存在するからです(100年前はそうではありませんでした)。差別は自然的な事実ではありません。僕たちがこの世界をどのように認識し、分類し、そのカテゴリーをどのように扱うかという態度によって差別は「事実となる」のです。

「(私とあなたは違うのはもちろんだが)この文脈において私とあなたは同じとして扱われるべき」これが「社会的合意」の獲得を目指さんとするあらゆる運動の原点です。「違いを踏まえつつ、同じであると主張する」ことは確かに困難ですが、「文脈」を見失い、「誰が(何が)私とあなたを違うものとして扱っているのか」を見失えば「流れ」は決して作られることはありません。

(追記)
かの女性職員が「サヨク」であるとして、バッシングされているようです。これまた非常に興味深いですね。だって労働問題を取り上げて「2ちゃんねる」で株を上げた志位氏はそもそも「共産党」の委員長なわけですから。なるほど彼女が「アカ」だったとしましょう。So what?「アカ」は労働問題に言及してはいけないのですか?とすれば、その「頭目」たる志位氏に関してはなぜ「GJ」なのでしょうか。

(関連Entry)
労働・モラリズム・分割統治
宮台真司の差別論

2008年03月12日

「貸倒引当金」を使い込め!

Memo

「貸倒引当金使い込め」新銀行東京、旧経営陣が常軌を逸した指示 今夕、内部報告書を公表

報告書には、旧経営陣が「貸倒引当金を使い込め」と繰り返し指示するなど、常識を逸脱した発言の数々があったことも盛り込まれた。

確かに常識を逸している。「貸倒引当金」なるものを実際に手にし、それを使い込める人間が存在したとは。

ちなみにどこかで聞いた笑い話。あるなりたての会計士(補)が、監査に出向いた時に大真面目に「ところで資本金はどこにありますか?」とクライアントに尋ねたそうだ。もちろん上司から大目玉を食らったそうだが。

2008年02月02日

「橋下徹の当選」の意味

Notes

はてなブックマーク - ぼやきくっくり | なぜ大阪府民は橋下徹氏を選んだか
はてなブックマーク - はてなブックマーク - ぼやきくっくり | なぜ大阪府民は橋下徹氏を選んだかあたりの議論に関して。

はてなブックマーク - 「ネガティブ・キャンペーンだ!」というネガティブ・キャンペーン - モジモジ君の日記。みたいな。

この中のD_Amonさんのコメントにあるように、橋下に投票するということは橋下の発言に見られる価値判断にコミットすることと事実上同等の意味を持つ。

「橋下氏の財政再建策に同意しただけで、核武装発言にはコミットしていない」とか、「買春は中国へのODA」という発言には同意していないとか、まあどのような意図で彼に投票したのか(支持を与えたのか)は人それぞれだろう。

が、ポイントは日本において憲法で定められている「自由委任の原則」の下ではそのような「意図」はあまり意味がないということだ。以前僕が書いたことを再掲してみる。

例えば、国会議員は選挙区の有権者に対する奉仕者ではなく、国民全体に対する奉仕者だ、とよく言われる。さらに言えば「個々」の国民の意思が問題なのではなく、「全体」としての国民の意思が問題だ、というわけだ。でも一体「個々」ではない「全体」ってどういうものなんだろうか。少なくとも具体的な存在、指示対象ではないことは確かだ。とすると、これは「法人-機関」関係とよく似てくる。具体的存在ではないものは、それがこの世界に現象するために機関(=器官)を必要とする。つまり「国民(全体)の意思」なるものは、それが現象する為に国会議員がいなければならない、というわけだ。もう少し強調して言うと、議員が存在して(具体的に行為したり、意思を表明したりして)初めてその背後に「国民の意思」なるものが想定される、ということになる。

これはかなり驚くべき考え方ではないだろうか。個々の有権者が何を考えていようと一旦議員が選出されれば、彼が意思したことが(それがどのようなものであれ)すなわち国民の意思なのだ、というのなら、事実上代表者は国民の意思なるものを恣意的に解釈せざるを得ないし、つきつめればそうすべきだ、ということになりかねないからだ。

ざっくりと言ってしまえばこれが「自由委任」というものの「原理」だということだ。彼は自身を支持した大阪府民がどのような「意思」を持っているのかを恣意的に解釈できる(解釈せざるを得ない)。彼が為した、政治家としての認識が問われる種々の発言について彼は、「支持された」=「それが民意である」と解釈出来るのである(そしてさしあたってそれを否定出来る内在的制約は存在しない)。それは例えば石原慎太郎についても同じ。「東京オリンピックには賛成しないが…」というような「東京都民」なるものの「真の意図」とやらがあったとして、それを石原が汲み取るべき理由はない。

そのこと(=選挙後には彼は「民意」の解釈権をさしあたって独占できるということ)を弁えていれば、橋下徹が政治家としてどのような認識を持っているかを知らせることがなぜ否定的に捉えられなければならないのかさっぱり分からない。繰り返しになるけれど、「民意」は恣意的に解釈され、橋下の主張にさしあたってコミットしたとみなされる(みなされざるをえない)のだから、それを前提に少なくともあらゆる材料は選挙前・選挙中に出されるべきでないの?それが候補者にとって肯定的なものであれ、否定的なものであれ。

ま、「郵政民営化」だけで他の議論を全くせずに勝った党が、反対派の復党を認めたり、憲法改正をぶち上げたり、「環境の為に道路特定財源は必要」などと法螺を吹きまくったりの状況をみると、そのことの重要性を僕は非常に強く感じるわけだけれども、どうやら世の中には「候補者間の批判は許されず、かつ候補者は自分に都合の良いことばかり主張する」選挙こそが「理想」と言い出す、有権者の眼力をもはや「超能力レベル」まで過大評価しかつそれを前提に何事かを語ろうとする人がいるようで。

ちなみに「ネガティヴキャンペーンは戦略的に良くない」という議論は、ほぼ実証不可能。実際それで勝利した(正確には、ネガティヴキャンペーンを張った陣営が勝った)例は沢山ある。近いところでは、あの小泉の郵政選挙でも「郵政民営化反対派は既得権益と繋がった抵抗勢力」とレッテルを張るというネガティヴキャンペーンが行われたし、少し遡れば東京都知事選「美濃部vs.石原」でのものも有名。にわか「選挙参謀」面するのは自由だけど、説得力ゼロ。

(追記)
選挙後

「(発行しないという)それまでのコメントは政治的な戦術もある」

(橋下氏は府債を発行しない公約を掲げて知事選を戦った。報道陣から公約の重みを指摘されると)「あらゆることを知ったうえでしか発言できないのであれば、今までの行政と変わりがない」

選挙中】 

(「府民所得50万円アップ」という政策について)「根拠を示していない。ビジネスも経済もまったく知らない学者あがりを大阪府のトップにしていいのか」
「府民所得50万円アップ」→「府債を発行しない」・「ビジネスも経済も」→「府の財政も」・「学者あがり」→「タレントあがり」に変えてみましょう。面白いものが見えてきます。「熊谷氏の政策にはリアリティがまるでない」と批判していた人たちよ、さあ存分に蜂起せよ!

(再追記)

(「府民所得50万円アップ」という政策について)「根拠を示していない。ビジネスも経済もまったく知らない学者あがりを大阪府のトップにしていいのか」

毎日新聞『橋下大阪府知事:教育公約を見直し…「机上の空論だった」』
大阪府の橋下徹知事は13日、就任後初の定例記者会見で、知事選の公約として掲げた習熟度別クラス編成導入や府立高校の学区制撤廃について、「机上の空論だった」と述べ、根本的に見直すことを表明した。
「府民所得50万円アップ」→「習熟度別クラス編成導入(学区制撤廃)」・「ビジネスも経済も」→「教育も」・「学者あがり」→「タレントあがり」に変えてみましょう。面白いものが見えてきます…というかそもそも彼が「知っている」と胸を張って言えるのは一体何なのでしょうか?専門分野の一つであるはずの憲法学についても頼りないようですけれども。

2008年01月29日

上品な趣味について

Thinking

僕は福士加代子は非難しないが、あれを「感動した」とか言っている人を見るとうんざりする。

「諦めずに最後まで走りきったことはこれからの糧になる(意味がある)」と主張しているコメンテーターがいるのだけど正気なのだろうか?「最後まで完走したこと」にあのレベルの選手として客観的な「意味」があるわけがない。だいたい、レース前「福士加代子は42.195kmを完走できるか」に関心を寄せていた人がどこにいるというのか。「完走など出来て当たり前で、どのくらいの記録を出せるか」を注目していたに決まっているのである。福士が「マラソンを完走できるかどうかのレベル」にないことなど誰もが知っていたはずじゃないか。何故シラをきろうとするのか?

逆に「諦めずに」完走したところで、平凡な記録に終われば「期待外れ」と言われるのがあのレベルの選手たちの宿命である。現に今回のレースで日本人トップでゴールした選手など、その「平凡な記録」ゆえ誰も見向きもしないわけである。何故福士だけ「完走しただけで素晴しい」の大合唱になるのか全く理解できない。

「最初から飛ばしてあのスピードで押し切るというスタイルこそが世界一を目指す者としては必要で、その勇気が素晴しい」と言っている人を見かけたが、それも所詮は詭弁だろう。もちろん、一発勝負で後がないところを彼女が自身の目指す理想のスタイルを貫いたことを「勇気」と認めるのはやぶさかではない。が、だとしても終盤の「公開処刑シーン」は蛇足だったはずである。記録、或いは日本人トップという可能性が潰えた時点で棄権すればいいのだ。

彼女は世界記録保持者の「皇帝」ゲブレシラシエの助言を聞いてそのスタイルを貫こうと考えたという。スピードを鈍らせない為に、長距離をコツコツと走るという定石をあえて無視していわゆるブレイクスルーを狙ったのだと。そしてそれが自分に一番合った調整法であると。その選択自体を非難しようとは全く思わない。

だがそれは「失敗だったこと」が、彼女にゲブレシラシエのような調整方法でマラソンを走ることは出来ないということが30km過ぎに明らかになってしまったわけである。Game is over.賭けは終った。ただそれだけのことだ。

もちろん「自分も皇帝になれるのだ」と信じていた彼女は悔しいに決まっているだろう。彼女のプライドはズタズタになったかもしれない。でも(陳腐な言い方だが)そこから再起することも、過ちを認めてやり直すことも「勇気」の一つの示し方だったはずだ。彼女は選択を間違えただけだ。常識に挑戦することは悪ではない。罪を犯したわけではない。けれども彼女はその無様な姿を晒し続けた。何かの罰を受けているかのように。

が、大衆はその本来蛇足であるはずの、「公開処刑シーン」にこそ熱狂したわけである。フジテレビのカメラは舌なめずりをしながら彼女が苦悶する様を延々と映し出した。マスメディアの欲望は大衆の欲望である。メディアは、大衆の望むものをこそ差出し、事実大衆はそれに熱狂したのである。福士は哀れな生贄だった。もちろんそれは彼女の意思だったと。体のいい見世物にされることも彼女の選択したことであると。そういうエクスキュースはあるだろう。しかしその尻馬に乗って「感動した」と言い募る人間には、「趣味がよろしいことですなあ」と厭味の一つくらい言っても許されるだろうとは思う。

2008年01月22日

身辺雑記

Diary

遅れましたが、あけましておめでとうございます。

個人的な事情として、明るい見通しがほとんど立たない状況なので、あまり喜んでもいられない感じです。先のことを考えるのがとにかく億劫になるというか。始まったばかりなのに、まだ一年もこの年が続くということにほとほとうんざりさせられます。

あまりこのBlogには個人的な話は書かないのですが(たぶんこれからもほとんど書くことはないと思いますが)、まあたまには、ということでつぶやいてみました。

2007年12月30日

「本当に困っている人」とは誰か

Thinking

少し前の話題の蒸し返しで申し訳ないのだけれども。

インターネット上で「死ぬ死ぬ詐欺」と呼ばれ、問題視された事例があった。重い心臓病で移植手術しか助かる見込みのない少女の親御さんたちやその友人らがその費用をまかなう為の寄附を募ったことに対して、彼らの公表する会計データに一部不透明なところがあるとして、それを「会計責任を果たしていない」、「詐欺同然」と糾弾する人たちが現れたのだ。

僕の興味を引いたのはこの問題の糾弾者たちが、「少女の命を救うなと主張したいのではなく、会計責任を果たしていないから批判するのだ」という論法を採っていたことだった。だがしかし一口に「会計責任」と言っても、お金を集める際の規模、目的等によって果たされるべき責任の程度は様々に異なる。仮に批判者達が言うような「厳格な会計責任」が求められるとするならば、それはどのような理由からなのか?

様々な理由らしきものが語られてはいたので細部に立ち入ることは避けたいのだけれども、大まかに言ってしまえばそれは「本当に困っている人たちの為にリソースを配分するため」lということだった。どういうことか。

弱者に配分されるリソースは有限である。そしてリソースは弱者の中でも「本当に困っている人」から優先的に配分されるべきである。しかし会計等の公表されるデータに誤りがあれば、リソースの資源配分に「歪み」が生じてしまう。またその「歪み」が看過され続ければリソースの配分に対する社会的支持が失われ、リソース自体の縮小に繋がり、ひいては「本当に困っている人」にリソースの配分がなされなくなる。とまあ、だいたいこういうことらしい。

これを聞いて「もっともだ」とうなづく人は多いのだろうか?そうなのかもしれない。確かにこのような「リソースは有限である」という誰しもが否定し得ない前提から様々な結論を引き出す言説は至るところに見られる。例えば少し前には山形さんがその論法でイラクで人質になった人たちを批判して話題になったことがあった

けれどもそもそも「本当に困っている人」というのは誰なのだろうか?どんなに困っている人であっても生活の中で何らかの切り詰める余地、生活上の無駄を省く(経済的な話だけではなく、時間の使い方を含めて)こと、或いは選好の不適切さを指摘することはおそらく常に可能だろう。とすればほとんどの人間・或いはもしかしたら「本当に困っている人間」など誰もいない、という結論さえ導くことが出来そうだ。

リソース有限論は、理想の「本当に困っている人」(「非の打ちどころの無い被害者」と言い換えても同じことだが)の追求につながり、得てして「本当に困っている人」の「イデア」が作り上げられることになりやすい。難点はそれが現実には存在しそうもないことであり、利点は「困っていると訴える」人の粗探しをしてどこか一つでも難癖を付けられればリソースの分配を拒絶=節約できるということである。

リソース計算が不必要だと言いたいのではない。ただ、完璧なリソース配分がありえず、完璧なリソース計算がありえず、完璧な弱者・非の打ちどころの無い被害者が存在し得ないことを弁えないリソース有限論はいくらでもそれを節約し、弱者に配分しない為の正当化の口実になりうる(もっと言えばそれに「しか」なりえない)ということ、また自分の意に沿わない弱者・被害者を拒絶する為「だけ」の方便となりうることは指摘しておきたい。

以前書いたEntryに引き寄せて言えば、「困っていると今目の前で訴えている人」とイデア化した「非の打ちどころの無い被害者」を比較してどちらにリソース配分すべきか(=どちらがムダな支出か)を比較してしまえば、前者への支出は留保すべきという結論が導かれるのは自明だからである。

(追記)
少し話は違うのだけれども参考というか触発されたEntryを挙げさせて頂く。
Arisanのノート「『越境の時』を叱る

(関連Entry)
「ターゲット」の政治性?

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