- 7/31(Wed)「どうして勉強しなくちゃいけないんですか ?」
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最近気になるCMがある。何故そのCMが気になるかというと、そのCMは見ている人にある問いを一方的に投げかけ、しかも投げっぱなしで終わってしまうからだ。これは結構気持ちが悪い。となると、CMが回答を用意していない以上こちらが考えてしまうことになる。
それは、知っている人も多いと思うのだけれども、「どうして勉強しなくちゃいけないんですか?」というCMだ。
CMでは「私は一体何を勉強すれば良いんですか」とか他にも幾つかの問いが一方的に為されるのだが、僕が見る限り「どうして勉強しなくちゃいけないんですか?」というのは他の問いの前提になっているような問いなので(例えば「何を勉強すれば良いのか」という問いは「勉強しなければならない」という前提があって初めて意味をもつ)、僕が一番気になってしまうのはやっぱりこれなのだ。
「どうして勉強しなくてはならないのか」という問いへの確定的な答えなんて多分、ない。結局僕たちはそれに対して功利的に答えるしかない(そうした方が貴方の利益、「為」になるからだ、という図式で)。じゃあ問題はその「利益」が一体何かってことになる。
僕たちは一体何のために勉強するんだろうか。「知識が得られる」からというのが多分一番基本的な答えだ。必要な「知識が得られれ」ば資格も取れるし、尊敬をされたりもする。
ただ僕が勉強の目的の一つとして挙げたいのはそれ以外のこと、一言で言えば「頭の良い人になる」ということだ。「勉強が出来るのと頭が良いのは違う」、軽蔑的な意味合いの「偏差値エリート」などといった言葉たちに代表されるように、普通そのように考える人は殆んどいないようだ。でもそういう意味合いで「勉強」をとらえる人たちがいないのは、僕からしたら驚くべきことではあるのだ。
「人間の遺伝情報が解析され、持って生まれた能力がわかる時代になってきました。これからの教育では、そのことを認めるかどうかかが大切になってくる。僕はアクセプト(許容)せざるを得ないと思う。自分でどうにもならないものは、そこに神の存在を考えるしかない。その上で、人間のできることをやっていく必要があるんです。ある種の能力の備わっていない者が、いくらやってもねえ。いずれは就学期に遺伝子検査を行い、それぞれの子供の遺伝情報に見合った教育をしていく形になっていきますよ」
そもそも、このようなふざけた発言をする人間が「教育改革国民会議」の座長だというのだ。彼は「頭それ自体を良くする為に勉強する」などとは思いもよらないのだろう。「先天的な能力のある人間に知識を与えることで社会に利益がもたらされる、そういう能力のないものに知識をいくら与えてもムダだ、デジタルのデータベースにでも替わって貰えば良い」パラフレーズすればこんな感じだろうか。
これに対して例えば、今でも文献研究がその主流を占める哲学の分野で、それを最も忌み嫌った代表的な哲学者の一人にヴィトゲンシュタインがいる。哲学では、あるテーマを研究する際、過去に同じようなテーマを研究した哲学者の文献を調べるのが普通なのだが、彼は一切そういうことをしなかった。彼の問題意識があまりに独創的だったというのもあるのかもしれないが、そういう学問的態度そのものを嫌悪していたようだ。話によると彼は学問を「〜道」のように考えていたという。「柔道」の目的は「背負い投げ」などの投げ方を学ぶところにあるのではない。「柔道」の目的は強くなることだ。技の種類をいくら知っていようが強くなければ「柔道」を極めたとは言えない。学問もそれと同様だ、彼はそう考えていたらしい。要するに学問は「頭の良い人間」になる為に、というわけだ(そして事実、彼はその「天才的」と称される仕事をそのようにしてやったのだ)。
僕はこの考え方が割と好きだ。
もし僕に子供がいて「どうして勉強しなければならないのか」と聞かれた時、こんな風に答えたら、彼はそれを説得的で魅力的に感じるだろうか?分からない。しかも今の学校教育のシステムはそんなことを前提に作られてはいないのだ。でも「頭の良い人になる」という可能性を全く頭から排除し、これっぽっちも信じてもいないシステムの中で定義された「勉強」とやらをやらなければならないというのは、それはそれで味気ないなあとも思う。
「どうして勉強しなくちゃいけないんですか?(やりたくねえなあ)」、むべなるかな、という感じだ、僕としては。
- 7/28(Mon)「大きなたまねぎの隣で。」
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最近色々あってPCから離れていたので、この日記もほったらかしになっていた。何しろメールの返事も何も手が付いていない状態なのだから、ひどいものだ。
昨日友達と九段会館の屋上ビアガーデンで暑気払いをしてきた。日曜の九段下は本当にガラガラしている。ビアガーデン内も団体客以外の一般客は数えるほどで、ウェイターも時折暇そうにしていた。
僕はビールを喉の奥に流し込みながら、もういい加減付き合いも長くなる友達にクダを巻く。いつもの事ながら最低だ。にもかかわらずきちんと受け止めてくれる彼らのような人たちが居なければ、僕のような人間はまともに生活していくことすら出来やしないのだ。
- 7/23(Tue)「教えてあげたい」
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ここ数日ひどい暑さが続いている。ここまで暑いと良く見かける「夏が好き」という人に聞いてみたい気がする。「これのどこが?」
僕は、四季にはメリハリがついていた方が良い、という考えの持ち主なので夏が暑いのはそれほど嫌いでは無いのだが、それでもこれだけ暑いと、やっぱり、なるべく外に出かけて太陽の日差しを体一杯に浴びよう、などとは思えない。夏が好きな人たちは、この暑さが好きなのではなくて、夏にしか味わえない愉しみの方を愛しているのかもしれない。そうでなければ僕には彼らを理解することが出来そうにない。
先日、先週の日曜、ある宗教の小さな冊子を配り歩いている人、女性二人が、僕の部屋のドアを叩いた。その人たちは先々週も来ていた。その日は本当に暑かったし、ドアも開けてしまったものだから、彼女たちが生真面目に勧める冊子を一つ受け取り、帰ってもらった。
彼女たちは僕に脈が多少あると思ったのかもしれない。一週間後再び僕の部屋のインターホンを押した。その日もあまりに暑かったし、もらうだけなら、と思ってやっぱり僕はまた小冊子を受け取り、帰ってもらった。
彼女たちはいわゆる営業マンなのだろうか。多分そうではないだろう。きっと休日の日曜にボランティアで、その地域を酷暑の中廻っているのだと思う。自分たちが知った「教え」について僕とかに「教えてあげたい」という一心で。
最近どこかのサイトで、韓国の人たちは日本人に対して自分たちの国のことを「教えてあげたい」とよく口にするので少し驚いた、という話を読んだ。僕たちは韓国の人たちにであれ他国の人にであれ日本のことを「教えてあげたい」とはあまり言わない。「知って欲しい」とは言うかもしれないけれど。
「教えてあげたい」と「知って欲しい」の差は何だろうか。それは多分普通にしていては伝わらない、という感覚があるか無いかの差だろう、と僕は思う。例えば自転車に乗れない子供に「自転車の乗り方を教える」とは言うけど、「自転車の乗り方を知らせる」とは言わないように。
韓国人と同じように宗教の小冊子を配っていた彼女たちも、普通にしているだけでは伝わらない、という感覚があるのだろう。だからこんな暑い中に生真面目に歩き続けられるのだ。ちなみに日本は自国の立場を説明・アピールしたり、プレゼンスを示したりするのが下手だ、という話はよく聞くが僕たちも日本のことを教えてあげたい、という意識を多少は持った方が良いのかもしれない。
ところで彼女たちは今週の日曜も来るのだろうか。来たらまた冊子を受け取ってしまうだろうし、でもそうするとこの先彼女たちに延々と無駄足を踏ませ続けることになるし…それがなかなか悩ましい。
- 7/19(Fri)「軽やかなプロポーズ」
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安室奈美恵とTRFのSAMが離婚したというニュースを知った。
感想はまだ頭の中の整理がついていないので、うまく形になっていない。
僕は、この二人の結婚のニュースをすごく興味深く見ていた覚えがある。それは安室からSAMへのプロポーズの言葉、
丸山(SAMの名字)奈美恵になりたいな」
が当時何だか引っかかったからだ。
僕は現在進行中の夫婦別姓の議論は非常にくだらない、と思っている。「家制度からの解放」を主張するフェミニストたちが、何故「家制度」のシンボルである「名字」に固執するのか全く理解できないのだ。
「他人の名字になるのを強制されるのは、他人の家の奴隷に堕するのに等しく、自分のアイデンティティを否定されることだ。」とフェミニストたちは異口同音に述べるのだけれども、じゃあ「自分の家の奴隷であり続ける」のはOKなわけ?それっておかしいんじゃない?そもそも「同一の名字の保持」=「アイデンティティの保持」なんてそれこそ「家制度に束縛されている」ってことだ、と僕には思われる。「名字」なんて「家制度のシンボル」そのものなんだから。
寧ろ「家制度から個を解き放つ」ということが目的なら、そもそも「名字なんてどうでも良いモノでしかない」とその存在意義自体を否定するのが本筋だ。「名字なんて私には何の意味も意義もない。ましてやアイデンティティとは何の関係もない。それは単なる記号に過ぎない。」というように皆が考えるようになる時になって初めて、多分僕たちは「家制度」を「名字」という部分において乗り越えたことになる。「他人の名字になるのは嫌だ、私はあくまで自分の名字に固執したい」という主張は、「家制度」をより一層強化するのに資するだけだ。
ここら辺は内田先生の「ジェンダー」についての考え方(7/17)に、僕は全く同意する。よーするに、「忘れちまいなよ、そんなつまらないことは」ということだ。(もちろん、仕事をもっている人には、「名字」が変わることで、いちいち皆に名刺を配り直すとか、連絡するとかしなくてはならないという実生活上の不利益が存在するのは僕も認める。でもそれなら単に仕事場で「通称」を認めれば良いだけの話だ。)
「丸山奈美恵になりたいな」、僕にはそのプロポーズはものすごく軽やかに思えた。一見保守的ともとれる。でも彼女は自分の名字に全く固執しなかったし、ましてや「丸山」になることで自分のアイデンティティ、自分の仕事でのスタイルやプライドとかが否定されるなんて露ほども思わなかったんだろう。その点から見れば、彼女はどんなフェミニストよりもラディカルに「家制度」を否定してみせたとも言えるんじゃないだろうか。
話によると、「丸山家」は大きな病院のオーナー一家で、安室とSAMの息子はその後継ぎとしてかなりの期待を背負わされているみたいだ。その点から見て「丸山家」は「家制度」の縛りがかなりきついところだったのかもしれない。でもそうなると、「安室」と「丸山」を軽やかに「行き来」する安室とはなかなか反りが合わなかった部分もあったのではないだろうか。もちろんこれは僕の勝手な推測なのだけれども。
- 7/16(Tue)「サーバ移転と台風の日」
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このサイトが始まったばかりで、かつ複雑な構成でもなくて本当に良かった。
もしこれが何年も運営しているサイトであれば、膨大に蓄積されたログの整理と、リンクの張替え作業を目の前にし、呆然としていただろう。
サイトのデザインのリニューアルも、僕自身の飽きっぽい性格上、しばしば手を付けたい衝動に駆られるのだけれども、細かいところはともかく、全面的なのはおそらく当分やらないと思う。でも長い間やらないでいるとますます作業は大変になる、という悪循環の問題もあり、これはなかなか悩ましい。
でもまあ、サーバーを移転して、僕の中にたまっていた不満を解消する為に一歩踏み出せた感じなので、とりあえず今回はこれで良しということにしておきたい。
今日は今シーズン二度目の台風上陸の影響で未明ごろから凄まじい風と雨が吹き荒れていたのだけれども、「脱ダム」の長野県は幸いにも、前回に引き続き今回の台風でもさしたる大規模水害は起きなかったようだ。康夫ちゃんはさぞかしホッとしているだろう。
でも「脱ダム」に反対し、「県民の命を守るのが政治の責任だ」と声高に叫ぶ県議会議員は逆説的なのだけれども「水害が起きてほしい。出来れば大規模な惨事になって欲しい」と願っていたのではないだろうか。いや、きっとそう思っていたと思う。
「J.P.サルトル−A.カミュ論争」で、共産主義に傾倒していくサルトルの「革命」に異議を唱えるカミュが「強制収容所」の問題を追及したのだが、それに対してサルトルは、共産主義と聞けばすぐに鬼の首を取ったように「強制収容所」を持ち出すカミュは本当は心の底では「強制収容所」の存在を喜んでいるのではないか、自説の正しさがそれによって証明されたその喜びに打ち震えて隠し切れないといったように得意げに「強制収容所」の問題について語る、そういうのは下品だ、と斬って捨てていたのを、こんな時僕は思い出してしまう。
例えば「小泉の構造改革では日本経済は破綻しかねない」と反対している人たちは、言っていることとは裏腹にあらゆる経済指標の悪化に小躍りしているだろうし、教育問題にことのほか口を出したがる人たちは、少年による凶悪事件の頻発を待望するだろうし、自分の子供を交通事故で無くした親が、悪質ドライバーの問題を告発する時でさえ、これは公然と言うのは本当に憚られるのだけれども、多分彼らは自分たちの子供の起きたようなことが他にも多く起きて欲しいと願っている。
当たり前のことなのだが、「不正」を告発するにはまず「不正」が存在しなければならない。ありもしない「不正」を糾弾することは出来ないからだ。だからこそ「不正」を告発しようとする人たちは「不正」を待望するようになる。これは多分必然的なメカニズムだと僕は思う。僕たちは「不正」に依存せずに「正義」の側に立つことが出来ない。
もちろんサルトルは何も「不正」を告発することなんて「偽善」に過ぎないのだからそもそも無意味だなどということを言ったのではない。「不正」に依存せずに「正義」の資格を得られると信じ込み、得意げになって「不正」を言い立てるその態度を「下品」だと言ったのだ、と僕は思う。
大切なことは「正義の人」にならないことなんじゃないだろうか。
「正義」の人はそうであればあるほど必然的に「不正」に汚染されている。そして「不正」があってはならないことである以上、それを待望する声高な「正義」は出来うる限り無いほうがいい。最も理想的なのは「正義」の告発なしで、誰も知らないうちに「不正」が消滅しているというかたちではないだろうか。もちろん現実的にはそういうことは難しい。だからこそ「不正」を「不正」と認識し、告発する「正義」はなくてはならないものなのかもしれない。でも「正義」というのはそもそも不健康で下品なものだ、しかもそれが声高であればあるほど、という認識はやっぱり持っておきたい、と僕は思う。
と、ここまで書いてきてなんなのだが、どっかで似たような話をウェブ上で読んだ気がする。それが何処なのか、ちょっと思い出せないので、もし似た話を見かけたらメールでも下さい。でもそうなると僕も無意識のうちに「パクリ」をやっていることになるのだろうか。うーん。
- 7/10(Wed)「ネットとテレビとインタラクティヴ」
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「2ちゃんねらー」たちが、フジテレビのワールドカップにおける偏向報道とそれに対するクレームへの対応の傲慢さ(担当者は「あんたに観てもらわなくたってこっちは痛くも何ともないんだよ!」などと言い放ったという)に抗議の意味を込めて、フジテレビ「27時間テレビ」の目玉企画「湘南海岸のごみ拾いに一万人集まるか」を潰す為に、フジテレビよりも先に全てごみを拾ってしまった、というのが話題になっている。
結局フジテレビは、何一つ落ちていない綺麗な砂浜でその日に集められた人たちに、ごみを拾っているフリをさせるという「ヤラセまがい」のマヌケな中継を流さざるをえなかった。
「2ちゃんねらー」の発想と実際にそれをやり遂げてしまう行動力にはいつもながらにただただ感服せざるをえない。でもこんなに面白い話をしらけさせたのはテレビ局側のつまらない対応だ。「いやあ、ごみ拾いしようと思ったら、先にもう拾われてて、企画横取りされちゃったよ!」とかギャグにしちゃえば面白かったのに。
そんなことを思いながら、僕はそれをもう少し違う観点から考えてみることにした。
マスメディアが何かを言うことで視聴者、僕たちは影響を受ける。僕達は無垢な対象ではありえない。例えば「渋谷の若者」はマスメディアによって流布されている「渋谷の若者のイメージ」についてよく知っている。だからテレビ番組の企画で「渋谷の若者」についてリサーチを試みれば、その「若者」は既に認識としてある「テレビメメディア上での渋谷の若者についてのイメージ」を踏まえたうえで反応を返すということになる。だとすればそのリサーチは「渋谷の若者」の実態を「純粋に」表したモノとは言えない。
つまり僕たちとメディアは実は「共犯関係」にあったりするのだ。
今回の事もフジテレビが言い出さなかったら、「2ちゃんねらー」は「ごみを横取りして嫌がらせをしよう」などという行動には出なかった。
でもテレビの側はあくまで企画の目的(砂浜の美化)の達成より、「企画のおかげで砂浜が綺麗になった」という、自分たちの企画「そのもの」の成功にヤラセをしてまで固執した。
そこには、「インタラクティヴ」とか「双方向性」とか「相互共犯的関係」とかと一切無縁のところに今のテレビがあり、彼らはそこから一歩も動こうとしないという、頑迷さが表れているように思う。
先述の通り、ネット上での「2ちゃんねらー」の「ごみの横取り企画」はそもそも発端自体「テレビがそう来るのなら俺たちはこう出るよ」みたいにインタラクティヴな始まり方だったし、企画自体も提案者とそれに対して協力する人たちが入り混じって、お互いに提案し合いお互いに協力・支援しあう、みたいに双方向的に進められていった。
それに比べてテレビの企画は単に全くの一方通行だ。しかも「2ちゃんねらー」のリアクションにはヤラセで誤魔化すという意地の張りようには、予想されたこととは言え苦笑するしかない。
でもさっき言ったように、もしそこで彼らが一歩突き抜けて「いやあ、ごみ横取りされちゃったよ、参ったなあ、はっはっは」みたいにギャグにしてたら、「2ちゃんねらー」の企画も盛り上がったし、多分フジも「あんなに綺麗な砂浜で拾うフリをするボランティア」のマヌケな映像を流さずに済んだと思う。フジは「自分たちの企画そのものの成功」にこだわって、結局その企画を「27時間テレビ」の中で最も盛り下げた企画にしてしまったのだ。
それにしてもテレビが「インタラクティヴ」、双方向のコミュニケーションから生まれる「偶然性」とか「面白さ」とかをまるで存在すらしないかのように無視し続けるのには、何だろう、何か深い理由でもあるのだろうか。僕にはそれが良く分からないのだけれども。
- 7/8(Mon)「『政治』という名の憂鬱」
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一昨日「テキスト」をアップしたのだけれど、政治の話はもう多分書かないと思う。書いていてものすごくつまらなかったし、少し立って読み返してみてもやっぱりつまらない(これはまあ、内容そのものが空虚だと言うこともある)面白くないものは書いても仕方が無い。
そんなわけで、ものすごく嫌いな文章なので、消すかもしれません。まあ、このサイトを見ている人の80%は「僕自身」なので、そんなことを宣言しても仕方ないのだけれども。
でもここまできたらしつこいのを承知で後もうひとつだけ、付け加えます。田中康夫は不信任案可決後の記者会見で今後のことについて聞かれ、
「今後のことは県民の皆様の声に耳を澄ませながら判断していきたい」
と語った。そしてそれ以後も同じことを再三再四述べている。でも今彼は、他県の反ダム集会に顔を出し、マスメディアめぐりをすることに、ただひたすら汗をかいている。僕は彼のそんなところにやっぱり、「テキスト」で書いたような思いを強く持たざるをえないのだ。
自分の言ったことを何故実行しようとしないんだろう。自分から言い出したことに何故責任を持たないのだろう?今こそ長野県を歩き回って色んな声と向き合う良いチャンスじゃないか。何故テレビカメラの前でパフォーマンスばかりするんだろう。そっちの方が慣れていて楽だから?
ああ、書いていてまた嫌な気分になってきた。やっぱり僕は政治の話は好きじゃない。
- 7/3(Wed)「祭りのあと」
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ワールドカップが終わった。そして今はまだ祭りの熱狂が覚めやらぬさなかにあるこの大会が、冷静に振り返られるのはきっともう少しあとになるのだろう。
この大会は本当にひどいことがたくさん起きた大会だった。
一体、これまでも数多く誤審は存在したとはいえ、それによって大会そのものの正当性が危うくなるようなことがあっただろうか?だが事実この大会はそうなっているのだ。
確かに僕たちの共催のパートナーは全く幼稚だった。
アメリカ戦で同点に追いついた後の彼らのつまらないパフォーマンス。それについて彼らは「誤審によってオリンピックの金メダルを奪われたショートトラックの選手の無念」を晴らす為だったと胸を張った。
だがその数日後のイタリア戦、そしてスペイン戦。彼らはあのFIFAですら公式に「誤審」と認めざるをえなかった最悪の、しかも試合を決定づけてしまったジャッジについて抗議が及ぶと、「負け犬の遠吠え」、「審判のせいにするのはみっともない」と嘲笑した。彼らは最も憎んでいた冬季オリンピックの時のアメリカと全く同じことを他の人たちに平気でしてしまっているのだ。
蛇足だが、ショートトラックの誤審騒動が持ち上がった直後、それについてアメリカのバラエティ番組で司会者が韓国人を揶揄するような言動を行ったことに、韓国のメディアが激怒していたことを、僕は今でもはっきりと思い出すことが出来る。
少なくともあの時に哀しみを経験した彼らが、今回自分たちがしていることがどういうことなのかについて、何故理解しようとしないのか、僕には全く分からない。
とは言え、だ。
スポーツには誤審が付きものだ。そしてワールドカップもその長い歴史の中でまさに「あいた口が塞がらない」ような酷い誤審騒動をいくつも起こしてきた。けれどもそれは結局プラスマイナスゼロだ、と多分多くの国のサッカーファンは思っている。代表例を挙げれば、イングランドは1966年、自国で開催された大会に「疑惑のゴール」で優勝を飾り、その20年後「神の子」マラドーナの「ゴッドハンド・ゴール」で敗れ去った。他の国もそうだ。ある時は審判に助けられ、ある時は審判で涙をのむ。
問題はことサッカー界においては、世界と韓国との関係の中に「返すべき負債」も「取り立てるべき債権」も何もなかったことだ。それは韓国を含めたアジアそのものがサッカー界の中でこれまで全くの「招待客」に過ぎず、そもそも「実質的な認知」自体がなされていなかったことを意味している。
今回、韓国は幼稚な振る舞いと偏向ジャッジのおかげで、「招待客」から一歩抜け出ることが出来たようだ。彼らは今回の「巨大な負債」の「清算」をきっちり迫られるだろう。このようにして「認知」を受ける、そんな「認知のされ方」が彼らにとって「良い」ことなのかは分からない。それは後で彼ら自身が冷静になって判断することだ。
が、だからといって僕は、今大会の正当性を否定し、この大会自体デタラメで何の意味も価値もないといわんばかりの極端な議論にはやっぱり反対しておきたいと思う。
「歴史」に対する最悪の暴力とは「歴史的事実」を改ざんしてしまうことではない。「歴史的事実」そのものをそもそも「なかった」ことのようにしてしまうことだ。
この大会を僕たちの幼稚な共催パートナーの振る舞いだけで、あたかも「なかった」ことにしてしまうのは、やっぱり抵抗がある。セネガルのFWディウフの勇敢さ、ドイツGKカーンの闘志、アイルランドのFWダフの愚直さ、それら全てをなかったこととして忘れてしまうようなことを、僕はしたくない。
僕が「冷静に振り返られる」だろうと言ったのはそういうことだ。確かにこの大会にはひどいことも沢山あったが、その一方でやっぱり素晴らしいことも沢山あったのだ。それ全てを含めて、「ワールドカップ」なのだという認識を、いずれにせよ僕は持ちたいと思う。