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「 民主主義は再生したか 」 ― 長野県政と『ポスト・手続き民主主義』の行方 ― 初めてアップするテキストが「長野県政」みたいな、注目度が高いわりに間が抜けてて垢抜けないイメージのものをテーマにしたものになるとは、正直思っていなかった。 実を言うと、僕は住民票が、今住んでいるところにではなく、「松本」にあるものだから、今回の県知事への不信任騒動で、また選挙に行かなければならないのだ。でもまあ、多分「出直し選挙」は田中康夫の圧勝になるだろうから、行く意味もあまりないのかもしれない。だって県議会側は田中康夫の対抗馬すらまだ見つけてもいないし、それに何てったって「康夫ちゃん」には全マスコミが味方についていて、「康夫ちゃん」=改革の旗手、「県議会」=利権保守派、みたいなイメージを垂れ流してるわけだから。 こんな言い方をしてるけど、僕は別に田中康夫を全面的に否定しているわけではない。何しろ、前知事だった「ミズスマシ」のオッサンの頃は、政治家ヅラした田舎モンたちが寄ってたかって予算を私物化する、「痴呆自治」をひたすらやってたのだ。「県議会」=利権保守派、というのは全くその通りだし、彼らに「現知事は現在、県政の停滞を招いている」とか言う資格なんてこれっぽっちもありはしない。県政は「今までずっと」停滞してたのだ。 ただ知事が替わってどうなの?と言われると、「目に見えて良くなったとも言えないなあ…うーん…」っていうのが正直なところなのだ。 そもそも僕が田中康夫という人間に期待したのは、彼が「手続き民主主義」を批判して 「既存の手続きの結果集約された『民意』とは別の、潜在的なそしてより大きい流れの『民意』が存在している可能性があって、それを掘り起こしたいんだ」 みたいなことを言っていたからだ。神戸空港反対運動のおかげかもしれないのだけれども、それを聞いた時正直僕は、この人分かってるなあ、と感心した。それは例えば公共事業、しかもその代表である道路を例に出すと、良く分かるかもしれない。 道路建設計画が持ち上がるとその道路事業の周辺の地域(市単位ではなくてもっと小さな、村とか小さい町内会単位で)には「対策委員会」というものが立ち上げられる。そしてその対策委員会がその地域の意見とか要望とかを取りまとめて役所へと上げていくのだ。 ところがこの対策委員会というのがそもそもデタラメで、それを構成するのはその地域の有力者とか、建設業界とべったりの議員の後援者たちとかそんな人たちばっかりなのだ。そんな人たちはまともに地域の意見の集約なんて事はしない。「大賛成なので早く作ってくれ」とか或いはそれが地方の田舎であれば「自分の農地の上に道路を通して欲しい(農業なんて儲からないし自分の子供も後を継がないと言っているから出来るだけ高く買ってくれ、みたいな背景がある)」というような意見を勝手に「地域の総意」としてしばしばデッチ上げてしまう。 じゃあ、何故道路計画に反対の意見を持つ人はそんな理不尽な話に抗えないかというと、そこが田舎のムラ社会の特殊な事情で、地域内で力のある人・声の大きい人が強引に流れを作るとそれに逆らう雰囲気が出来にくいというのがやっぱり大きいものとしてある。要するにあまりそこで波風を立てて「村八分」にされたくない、というやつだ。相手が地域内の有力者であるならなおさら、というわけ。 都市的な観点からすると少し不思議かもしれないが、田舎でムラから自立して生きるというのは大変なことだ。いや、本当はやってみるとそれほどでもないのかもしれないのだけれども、未だ「ゆりかごから墓場まで」様々な場面でムラとの共同作業は、やっぱり都市と比べて田舎は物凄く多いわけで、それを考えるとムラに住む人にとってはムラ抜きの生活ということ自体、かなり構想しにくい状況にあるのは確かなのだ。 田舎のムラ社会のこういう「同調圧力」の存在は実は周知の事実だったりする。例えばこれまで行政はこれを熟知していて計画を円滑に進める時に為にしばしば利用してきた。地域の有力者と予め話をつけたうえで計画を作るとか。もう田舎では本当にごくありふれた話だ。 そうして後は、「計画案について説明義務は尽くした上で地元の了解は得た」として行政は議会に案を提出して、役人と結託した利権屋の巣窟の議会が承認するというプロセスを経れば後は現実に予算がつくのを待つばかり、ということになる。 旧態依然とした行政や政治家がこだわる「手続き」なんて、実態はこんなもので、その出て来た「民意」なんてとんでもなく歪んでしまっていることがほとんどだ。 そして田中康夫はそれをきちんと見抜いていて「既存の手続きにだけに頼るのではなく、本当の民意に耳を澄ませたい」というように選挙で訴えていた。だから多分急激にあれだけの支持を取り付けることが出来たし、僕も期待していた。 でもそれは今のところ少し裏切られつつあるのは事実だ。田中県政の代名詞的な「車座集会」は県民の不満の単なる「ガス抜き」としてしか機能していない。いや、「ガス抜き」としても不十分かもしれない。何しろ中身は質問者の数十秒ほどの質問の後、田中康夫が質問に関係ないことまで含めて10分以上独演をぶつ、ということの繰り返しだからだ。しかも「集会」で出された意見や要望がどのように「持ち帰られて」、政策に「反映」されたかなんて全く分からない。それらの意見が実際に行政の中で議論され、検討されるかさえも分からない。要するに全ては田中康夫の胸先三寸次第という調子なのだ。 その他「どこでも知事室」は開店休業状態、「Eメールでの意見受付」(「県民の声ホットライン」)も受け付けっぱなしで殆んどが「なしのつぶて」となれば、一体あなたは「本当の民意」の集約をどういう形でやってるの?と聞きたくもなる。 要するに彼が「これが本当の民意だ」として提示しても、それには彼以外の人を説得できるような確固たる根拠がまるでないのだ。それを「開かれた県政」と言われても「看板に偽りあり」のそしりを免れないんじゃないだろうか。 彼は選挙の時に何度も「僕は具体的に、何を作ります(止めます)、これを誘致します(しません)といった公約はしない」と言い、先述のように「意思決定」とか「民意をいかに汲み上げるか」とか「政策決定過程の透明性」みたいなことをひたすら問題にしていた。そもそも「公共事業の見直し」もこういう「県民とのコミュニケーション」が前提となっていたのだ。つまり「現在進行中の公共事業を見直すのは、それが民意とかけ離れて決定された可能性があるからだ」ということだ。更に彼は、僕が生で聞いた時には、 「公共事業を進める際は『必ず』メリット・デメリットを含めた最低三つの案を提示して県民に判断してもらう」 とも言っていた。これらの一連の流れを見れば、彼の公約の中心が「公共事業の中止」にあるのではなく、「形骸化した既存の手続き民主主義を正し」・「いかに民主主義を再生するか」という点にあったのは明らかだと思う。 でも今回問題になっているダムの案件では、彼は「脱ダムの方向で進める」と一つの案しか提示していないし、しかもその案について「メリット・デメリット」を県民・流域住民ときちんと共有し合おうとした形跡も一切ない。 何だか「脱ダム」=「公共事業の中止」こそが実現されるべきで、県民はその理念を共有するべきだ、という、選挙の時のスタンスとはまるで反対になってしまっている気がするのは果たして僕の気のせいなんだろうか? 僕は「脱ダム」の理念自体に対しては基本的に全く賛成だし、その方向で進んでくれれば良いな、と思ってはいる。そして現段階ではこれを支持する県民も多い。 でもじゃあその理念が何でこれまで実現されてこなかったかといえば、言うまでもなく大きなデメリットがあるからだ。100年に一度の規模の洪水が起きたら、流域住民の安全を保証できない、というやつだ。それでも理念を優先するということは、そのデメリットというか、リスクを僕たちは引き受けなければならない、ということを意味する。行政の仕事の本質が住民の生命と財産を守る、という点にあるとすれば、それは行政がある程度その責任を放棄し、住民とシェアするということになるだろう。 それは嫌だ、という人がいるかもしれない。それでも「脱ダム」路線で行こうという人もいるだろう。それは県民の選択に任せるべき問題だ。そして任せる以上はきちんとそのメリットとデメリットの詳しい内容を情報として予め住民に与えておかなければならない。 かなり回りくどくなってしまった。なんだか同じことを繰り返し書いてきた気がするのだが、それも当然だ。僕が言いたいことは、田中康夫が自分で選挙の時に言っていたことで尽きているし、それ以上のものは何もないからだ。僕が彼に求めたいのは単に「公約を守れ」ということに過ぎない。 もちろんそれはすごく大変なことだ。今までの手続きとは違って手間も時間もかかる。でも彼はそれをやると言って当選したのだから、そこには責任を持つべきだろう。 今回のダムの件で彼が責任を果たしていないことがいまいち分かりにくいのは、単にたまたま現段階で「脱ダム」の理念に賛成という人が多いからだ。でもそれはこの件に関する重要な情報が与えられた上での支持でない以上、殆んど意味なんてない。何しろ彼は下諏訪ダムの建設中止を宣言したその前後ですら、ただの一度も地元に入って、住民の人たちや首長と話し合いを持たなかった。もちろん未だに。 今いる私利私欲でダム計画を進めたいだけの「ミニムネオ」みたいな人たちなど全員勝手にくたばれば良いし、実際に今回は、一番最初のところで予想したように、きっとかなりの確率でそうなるだろう。でもそれは本質的な問題じゃない。政治を密室内で私物化していた利権屋たちがいなくなり、その代わりに一人の頭の中だけで不透明に政策判断する知事の手法が「長野モデル」と言われても、何か改革されたようには僕には思えないのだ。 (7/7/2002) |
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