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「 妥当なラインをめぐって 」 ― 僕たちは未来の為にいかにして倫理的に振舞えるのか ― 「未来の為に…」、「自分たちの子供・孫の世代の為に…」 そんな枕詞を耳にする機会が最近増えてきた。環境問題においては勿論の事、経済問題においても徐々にそうなってきている。 例えば、日本の財政規律を重視する人たちは「今、野放図に赤字国債を垂れ流すことは未来の世代に禍根を残す」と主張するし、多少無理してでも公共事業で景気回復を、と唱える人たちは「道路など、公共投資によって作られるものは子々孫々にとって大切な財産・インフラとなるものだ」と言ったりもする。 「今の自分のことだけを考えるのではいけない、未来の世代のことも考慮すべし」というのは極めて倫理的な語り方だ。それは「不在の他者」の問題だからだ。 僕たちは他人と様々に取引をする。その取引は、僕が自分の利益を出来るだけ多くしようとし、相手もそうしてくる、そういう交渉を経て為される。その結果僕は、当初考えていたのよりは少ない利益しか得られなくてガッカリするかもしれない。でも取引の成立を決めた、ということは一応僕が納得した、ということだ。もちろん相手もそうだ。 でももし僕が相手を気にせず「好きな値をつけて良い」、「言い値で良い」という取引が出来るとする。僕はどんな値をつけるだろうか。相手が払える限界までのムチャクチャな高値をつけるだろうか。それとも、それでも相手の納得のことを考えて「妥当なライン」を探ろうとするだろうか。 でもそもそも一体その「妥当なライン」とはどのように決めればよいのだろうか?何しろ取引相手が不在なのだ。それは僕が「今ここにいない取引相手」のことをどれだけ考えてあげられるか(まあこ難しく言うと、自己の問題として内面化しうるか)、という点にかかってくる。 これが「不在の他者」にまつわる倫理的な問題だ。 僕たちが現在の世界で「生存権」が保証されているように、未来の世界の「生存権」を持っているのはまさに「未来の世代」だ。僕たちが現在の「生存権」をたてに好き勝手やれば、その分「未来の世代」の「生存権」は荒らされてしまうかもしれない。もちろん未来の世代がきちんと存在して同じ取引交渉のテーブルにつくことが出来たら、お互い一応妥協し、納得の行く「妥当なライン」を見つけ出せるかもしれない。 でも重要なことは「未来の世代」が今ここに存在しないことだ。彼らは自分たちの利益や権利を主張して取引に加わることが出来ない。ということは現在の世代の僕たちが、自分の利益の追求と、見ず知らずの他者の利益の追求を、「同時に」やらなければならないということだ。でも僕たちは取引の際、本当にちゃんと「未来の世代」=「不在の他者」の言い分を酌んであげるだろうか。彼らがいないのをいいことに、余計に自分たちの利益を主張するような「ズル」を絶対にしないと、本当に言いきれるだろうか。 以上が環境問題や日本の財政問題など、「将来にまつわる問題」を語る上での基本的な構図というか「見通し」、みたいなものだ。そしてこの構図は、問題を解決する為には「不在の他者」への「倫理」というものが「核」となる、ということを示唆する。 さてこれで基本的には完結しているのだけれども、これだけでは僕自身何だか面白くないので、もう少し続けてみようと思う。 仮に「自分の利益よりも常に他人の利益を優先したい、人の喜びこそ自分の喜びだ」みたいにものすごく奇特な人たちでこの世界が一杯になったとする。じゃあ、環境問題も経済問題も解決か、といえばもちろん全くそうはならない。だって地球の温暖化問題一つとってみても、一体何が原因なのか、さらにもしCO2の温室効果が原因なら、どうしてCO2が増加したのか、それを防ぐにはどうしたら良いのか、それらは高度な科学・テクノロジーに依存しなくては何一つ解決しないからだ。 つまり僕たちはテクノロジーに「倫理的に振舞うにはどうすれば良いのか」という指針を立てて貰わなければ何も出来ないということになる。 専門知識ともテクノロジーとも無縁な、僕たち一般人は、倫理的に振舞うことがどういうことであるのか全く判断が出来ず、その全てを専門家に委ねてしまわざるをえない、というのは実は結構深刻な問題だ。 まず一つはそのテクノロジー自体が本当に信頼できるものであるかということ。例えば地球の温暖化に関しては、真剣に「CO2の温室効果が問題ではなく、気候的にほんの一時的な気温上昇のトレンドに入っているに過ぎない」という研究リポートが存在している。或いはゴミ問題で言えば「分別」するより全て燃やしてしまった方が環境負荷が小さいという研究者もいる。 僕たちが今やっていることが科学的にみて不合理だと、後になって判明する可能性がある。それほど問題は微妙なのに、それを大多数の全くの素人である僕たちは何のチェックも判断も出来ないのだ。 経済問題のケースになるとそれはより明瞭になる。 経済運営のテクニックの問題の一つである「財政赤字」を解決するのに「景気回復で税収を増やして対処すべき」という専門家と「無駄な支出を減らしてすぐにでもプライマリーバランスを実現させなければならない」という専門家同士の対立があるのだけれども、一体素人はこれについてどう判断を下せばいいのだろうか。 さらにもう一つの問題はそのようなテクノロジーや専門知識を利用して、無知な人たちをだます人たちが出てきかねないということだ。彼らは自分たちの利益の為に、主張に適当な理論武装を施して「これが未来のためだ」と正当化するかもしれない(例えば日本の道路族議員とか、研究費をぶん取りたいだけの研究者とか)。でも無知な僕にはそれを見破る手立てが、哀しいかな、存在しないのだ。 環境問題や将来を見据えた経済の問題について語ろうとする時の「核」には「不在の他者」への「倫理」がなければならない。そして、具体的に「倫理的に振舞おう」とすればそれはテクノロジーとそれに関わる人たちの「良心」=「倫理」にやはり依存しなければならない。 それでもなお、僕たちは「未来の世代」も納得しうるような「妥当なライン」を探り当てることが出来るだろうか。 僕はその問いかけに楽観的に「イエス」と答えたいと思う。もちろん根拠はない。でも「人類は論理を貫徹させた結果、自滅した」という自明な「トートロジー」が何となくしゃくに障るのは確かなのだ。 (8/25/2002) |
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