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「政治」と「文学」 ― 「人生をやり直させてあげる」という暴力 ― 「あなたの人生は全くの虚偽であり、不幸であり、我々の基準に従って全てやり直されなければならない」 そう他人から言われたとしたらどうだろうか。多分大方の反応は「あなたにそんなことを言われる筋合いはない」、「何の根拠があってそういうことが言えるのか」、或いは「人の人生について偉そうにどうこう言ってほしくない」というものだろう。 サッカーでは「審判」がプレイヤーのプレーについて評価を、しかも絶対的な評価を下す。審判が「ゴール」の笛を吹かなければそれは決して「ゴール」ではない(例えばW杯の韓国−スペイン戦はそれをまざまざと再確認させた)。 それなら、僕たちの人生について、「それは不幸だ」とか「間違っている」とかそういう裁定を下すのは誰なんだろうか。人生をサッカーみたいに「ゲーム」に例える人がよくいるんだけど、じゃあその「ゲーム」のルールを作ったり、ルールに照らして評価を下す「審判」はどこにいるんだろうか。 サッカーについて評価を下すのが審判なら、「人生」について評価を下す役割を担うのは普通は「神」ってことになる(いるとすればだけど)。でもここで、ある疑問が湧く。 サッカーの審判に従わず、反則をし続けるプレイヤーは強制的に「排除」されるし、或いはボールを手で持って投げ続けるような人は、定義上「サッカー」をしていないとさえ言える。つまり審判に従わない人はゲームに参加できないし、していないのだ。「人生」の場合はどうなんだろうか。「神」に従わない人間は「人生」に参加出来ないし、「人生」をしていないと言えるだろうか。 もちろんそれは言えない。僕たちは生きている限り「人生」を止めることも、「人生でない状態」を生きることも出来ない。「人生」には排除されるような「外部」がないのだ。ということは、全ての人は「プレイヤー」であり、「ゲーム」の「外部」から判定を下すような「視点」も「審判」も存在しないということになる。だから誰も「人生」について絶対的な評価を下すことは出来ない。 僕たちはそんな簡単なことを良く忘れて、しばしば勝手に「神」を捏造する。 例えば、ヒドイ例だけど、「あの人は莫大な財を為すことが出来て良い人生だった」というのを考えてみる。もちろんこれは間違っている。お金を稼ごうとしないからと言って「反則」になるわけでも、「人生」から「排除」されるわけでもない。つまり「人生」は「どれだけお金を稼げるかを競うゲーム」ではない。その人は「資本主義ゲーム」には「勝った」も知れないけど、別に「人生」に勝ったわけではない。そういうことを言う人は「資本主義」を「神」として捏造しているのだ。 前置きのクセに話が異常に長くなってしまった。僕の悪い癖だ。 何を言いたいのかというと、「日記」でも触れた拉致問題についてなんだけど。 例えば栗本薫の日記(9/19)にもあった、拉致被害者のうちの生存者の一人、元中央大の蓮池薫さんの復学を彼の両親が嘆願し、大学が了承したという話(彼の両親は彼に意思を確認する前にその嘆願を行った)、これは果たして「良い話」なんだろうか。 僕はそうは思わない。まるで冒頭のセリフを聞かされているような気がするからだ。 なぜ復学してやり直さなければならないのだろうか。 それは彼の今まで人生は虚偽だということだろうか。彼の両親は「神」の視点からモノを見てはいないだろうか。 確かに拉致された人の親自身に「拉致されなければ送れたであろう、子供との人生」をもう一度取り戻したい、やり直したいという切実な気持ちがあるのは痛いほど分かる。 でも子供は親の人生についてくる付属品ではない。所有物でもない。子供には子供の人生があるのだ。 「人生をやり直させてあげたい」というのは「優しさ」のようであって実は全くその逆で、本当はその人の人生を否定し、虚偽だとする極めて暴力的な思想なんだと思う。 確かに蓮池薫さんはやりたいことも制限されただろうし、経済的にも厳しい生活を余儀なくされただろう。その意味で彼は「自由主義ゲーム」にも「資本主義ゲーム」にも負けている。 けれどもだからと言って彼は「人生」における敗者なわけでは決してない。彼の「人生」は決して「まがい物」などではない。彼もまた、厳しい状況の中で自分の信じる確かなものを見据え、それを手放すことなく必死に生きてきたはずなのだ。 僕は栗本日記をそう読んだ。というよりそうとしか読めない。そして、なるほどと思う。 でもこれをある(芥川賞を主催する出版社の)週刊誌は「文学的」と皮肉った上で、「そういうのは拉致問題が解決してからやってくれ」と批判した。 よりによって栗本さんの「日記の内容」じゃなくて彼女のその「文学的態度」そのものを攻撃してしまっているのだ。 これは文学に「ポリティカルコレクトネス」を強制したり、「政治的な問題について文学は沈黙すべきだ」ということにならないだろうか。そしてもっと極端になれば「文学は政治と無関係なところで、毒にも薬にもならないファンタジーを語ればいいのだ」ということに。 ところで気になることがある。 拉致被害者の人たちが帰国してインタビューを受け、彼らが、カミュの「異邦人」の主人公ムルソーみたいに、「自分なりに一生懸命生きてきたので、人生についての後悔はありません」と万が一、口にしたとき、この週刊誌は何と言うのだろうか。 (9/28/2002) |
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